「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉があります。仏教のお経の書き出しの言葉です。「かくのごとく私は聞きました」という意味で、仏教が口伝で伝えられてきた名残なのでしょう。
仏教に興味を持った私は「縁がわ仏教講座」でもおなじみの、サティ〜ずのキタオさんから、お釈迦さまが直接説かれたという「根本仏教」のお話を聞いて、聞きかじったことをここに記して行きたいと思います。
第四話 全ての存在は苦である(一切皆苦)
全ての存在が普遍的に持っている性質
お釈迦さまが悟られた全ての存在の普遍的な性質を「現象世界の三大真理」として学んで来ました。全ての存在=現象が持っている普遍的な性質とは、変化し続け(諸行無常)、苦であり(一切皆苦)、関係しているのです(諸法無我)。
実はこれ、三つに分かれた性質では無く渾然一体になっているのです、とキタオさんは言います。「こっちの現象は無常の性質だが、あっちの現象は無我の性質だ」なんていうことはなく、一つの現象が「諸行無常」とも言えるし、「一切皆苦」とも言えるし、「諸法無我」とも言えるのです。
お釈迦さまにして、何年も修行した後にようやく体得された「真理」を、言葉で表現すること自体難しいわけですね。これをわかりやすく弟子たちに伝えるために、三大真理としてかみ砕いて下さったというわけです。
私たちは悟れないまでも、全ての存在=現象の性質を頭の中で理解することによって、何かあったときにパニックになったり、落ち込んだりしないですむ、ということです。なので、まずは頭の中だけでも理解したいと思います。
無常なるがゆえに「苦」である(一切皆苦)
それでは本日の主題、現象世界の三大真理の二番目「一切皆苦」について学んで行きたいと思います。「一切皆苦」とは読んで字のごとく「全ての存在=現象は、苦である」という意味です、とキタオさんは言います。
「諸々の形成されたもの(存在・現象)は無常なるが故に『苦』である」ということです。
仏教的に見ると、我々人間も元来「色(物質=肉体)・受(感受作用)・想(表象作用)・行(意志の形成)・識(認識作用)の五つの要素(簡単に言うと「からだ」と「こころ」)が組み合わさって、一時的に形成され存在しているものとされています。
さて、この「一切皆苦」ですが、字面だけ追っていくと、なんだか人生に夢も希望も持てないような突き放した言い方だなぁ、と以前から思っていました。この教えを額面通りに受け止めると、仏教とは厭世的な生き方を教えているように思われてしまうのではないかと、怪訝そうにしている私の表情を見て、待ってましたとばかりにキタオさんは話を続けます。
実は「一切皆苦」の「苦」は「苦しい」という意味だけの言葉ではありません。「苦」とは パーリ語でドゥッカ(Dukkha)と言い、「不安定」「不完全」「不満足」「虚しさ」といった意味合いも含んだ言葉です。中国のお坊さんがドゥッカを漢字に翻訳したとき、単純に「苦」と訳されたのです。
あ、なるほど、それなら今まで思っていた「一切皆苦」のイメージとは違って、もっと納得できるかも知れません。「全ての存在=現象は無常なるが故に『苦』である」の「苦」を「不安定」「不完全」「不満足」「虚しさ」に置き換えて見るとすごくよくわかります。キタオさんの話を要約すると以下のようになります。
①全ての存在は変化するから「不安定」である
諸行無常で学んだとおり、我々には変化の波が絶えず押し寄せてきています。変化の波とは、非難↔賞賛、名誉↔不名誉、損↔得、肉体的な苦↔楽のことでしたね。この波にもまれているわけですから、確かに不安定です。
②全ての存在は変化するから「不完全」である
変化し続けるということは「完成形」が無い、ということです。我々は他人や自分を見るときに「こうあるべき」という完成形を作ってしまいます。これを「妄想概念」と言います。しかし、その自分や相手の現実の姿は「不完全」なのです。
そうすると、あるべき姿と現実を比べ、思い通りには行かない差分に対して怒りの感情がわき上がってきます。他人に対しては批判したり攻撃したりするし、それを自分に向ければ間違いなく落ち込んでしまいます。
また、世の中には完全な人は居ないわけです。だから全ての人は、不完全なゆえにたびたび失敗をして、他人に迷惑をかけてしまうのです。
③全ての存在は変化するから「不満足」である
変化し続けるということは「満足」という状態も続かないので「不満足」になります。
肉体的な苦↔楽を例にして説明すると、朝からずっと歩いて疲れてくると「苦」を感じ、そこでベンチに座ると「楽」だなぁ、と感じます。これは立っているという「苦」が一時的に消えたからです。つまり「苦」があるがゆえに「楽」があるのです。
ところがずっと座っていると、また「苦」を感じ始め、そのまま座っては居られなくなります。そこで立ち上がると座っていた「苦」が消えて「楽」になります。
このように立ったり座ったりという現象の本質は「苦」であり、その「苦」が一時的に消えたときに「楽」を感じることがわかります。
つまり、生まれるということは「苦」の海に放り込まれるようなものなのです。
④全ての存在は変化するから虚しい
全ての存在が「不安定」で「不完全」で「不満足」であるということは、いつどうなるかわからない、ということです。現象世界とは、その存在自体がかりそめで、はかないもの、つまり虚しいものだということなのでしょう。
一切皆苦でお釈迦さまが説かれたことは、かりそめで、はかないものに執着し、それにこだわって、失うことを心配してくよくよ生きるよりも、今を精一杯生きなさい、ということに尽きます。
今回のお話を聞いて、これまでの「一切皆苦」の印象が180度変わりました。「どうせ世の中は苦なのだから、夢や希望が持てない」などと考えるのはやめて、もっとポジティブに今を精一杯生きることが大切なのだ、と気づくことができました。
次回は「諸法無我」です。お楽しみに…
最後に私がキタオさんから聞いた内容のメモを添付しますので、興味がある方は参照してください。
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