東京に住んでいた10年の間に、大学院での学びがあったり、カンポンさんの翻訳本を世に出すことができたり、気づきの瞑想の大切さを実感していた私でしたが、肝心の博士論文が一向に書けない日々が続きました。気づきや瞑想について、そして当時から関心を持っていたターミナルケアに関連した研究論文が書きたかったのですが、結局思い通りに仕上げることができないまま博士課程を満期退学しました。
ただ、退学後もタイ仏教や瞑想に関する小さな論文は書き続けていました。恩師である琉球大学の鈴木規之先生の研究プロジェクトにメンバーとして参加させてもらい、タイでの調査も細々と続けることができたのです。ただやり方としてはアクション・リサーチ(研究者自身が傍観するスタンスではなく、実際に現場で参加しながら研究する)のスタイルだったので、常に「自分は研究者なのか?実践者なのか?」を問いながら歩んでいました。二つの道のどちらか一つに絞れない自分をもどかしく思うこともありました。
そんな状態のまま、いくつかの大学や専門学校での非常勤講師を掛け持ちしながら東京での生活を続け、研究助成金をいただいて研究を続けていきました。やっていること自体は研究も教育も刺激的で面白かったのですが、30代のなかばになっても常勤の職についていなかったので、不安定な立場。今後どうしようかという気持ちもありつつも、今できることをまずはしっかりやろう!といくつもの仕事をやりました。
そんなある日、人生を変える出会いがあったのです。当時お世話になっていた研究所の所長さんから「今度、タイのマヒドン大学のピニット先生と学生さんたちが日本にスタディツアーに来るから、浦崎さんも一緒に食事に来ない?」と誘われました。ピニット・ラタナクン先生。先生のお名前はだいぶ前から存じ上げていて、宗教と生命倫理に関する著作をよく出版されていました。私はいつかお会いしたいと思いながらも、なかなかタイミングが合わずにいたので、 東京でお会い出来る!と嬉しくなり、その食事会に参加しました。
ピニット先生はマヒドン大学宗教学部の当時の学部長。日本の方との親交も厚く、その時は20名ほどの学生さんを連れて日本の宗教事情を学ぶツアーでした。研究所の所長さんとも懇意で、長年の交流がありました。所長さんは、タイ仏教の研究をしている私をピニット先生に紹介してくれ、私も先生の著作を読んで興味を持っていたことなどを話していると、ピニット先生は突然「浦崎さん、うちのマヒドンに来ない?」とおっしゃいました。私はとてもびっくりして、なんと答えていいのかわからなかったのですが、隣にいた所長さんが「浦崎さん、こんなチャンスは滅多にないよ!ここは心配しないでいいから、マヒドンに行ったらいいよ!」と後押しをしてくれたのです。
それからトントン拍子で、マヒドン大学宗教学部の講師としての就職が決まりました。2010年5月、私は再びタイの地に今度はタイの大学教員として住むことになりました。正直、タイの大学に就職することは考えたこともなかったのですが、実は私が研究プロジェクトの一員として細々と英語で書いた論文がいくつかあり、それが業績としても認められて、問題なくマヒドン大学での就職につながったのでした。
今、やれることを小さくてもやっておこう。そう心がけてやっていたことが、思いがけない出会いにつながった体験でした。そして今度は留学や調査ではなく、仕事としてタイに住むことになり、さらに大きな出会いが待っていました。
noteにて「月間:浦崎雅代のタイの空(Faa)に見守られて」連載中。タイ仏教の説法を毎日翻訳しお届けしています(有料記事)。note : https://note.mu/urasakimasayo