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如是我聞 -聞きかじり根本仏教⑤-「諸法無我」

「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉があります。仏教のお経の書き出しの言葉です。「かくのごとく私は聞きました」という意味で、仏教が口伝で伝えられてきた名残なのでしょう。

仏教に興味を持った私は「縁がわ仏教講座」でもおなじみの、サティ〜ずのキタオさんから、お釈迦さまが直接説かれたという「根本仏教」のお話を聞いて、聞きかじったことをここに記して行きたいと思います。

 

第五話 単独で存在できるものは無い(諸法無我)

幸せになるために真理を学ぶ

誰もが幸せになりたくて、頑張っているのに、なかなか幸せになれません。それは何故か?世の中の全ての存在、現象が備えている性質に当てはまらない見方、考え方、生き方をしているからに他なりません。それであれば、全ての存在、現象が備えている性質とは何なのか?それを知ることで、少なくとも右往左往せずに生きていくことができます。そして、そのことこそ、お釈迦さまが説かれた三大真理なのです。

ここまで、三大真理の「諸行無常」「一切皆苦」を学んで来ました。その内容は、諸行無常とは全ての存在は変化し続けているという性質を持っている、一切皆苦とは全ての存在は、不安定で、不完全で、不満足で、虚しいという性質を持っている、でした。そして、今回のテーマ三大真理の最後は「諸法無我」です。さて、どのような教えなのでしょうか?

 

全ての存在は関係し合っている(諸法無我)

「諸法無我」とは、全ての存在に「我」というものは無い、という意味です。とキタオさんは話し始めます。この「我」とは「常一主宰者」としての自分ということです。「常」は変化しない、固定している、ということ。無常の反対ですね。「一」は単独で存在しているということ。「主宰」とは、自分の意志でものごとを自由にコントロールできるということ。

「諸法無我」をその字義通り解釈すると、「変化せず、単独で存在し、自分の意志でものごとを自由にコントロールできる者はいない」となります。

そして、単独で存在できるものはいない、ということは、全ての存在はつながり、相互に関係し、存在しているということになります。

なんと、「我」にはそのような意味があったのですね。これを単に「自分」と解釈すると、全ての存在に自分というものが無い、となってしまい。意味が通じません。それに、確かに自分という存在があるからこそ、喜んだり悲しんだり、苦しんだり、真理を学びたいと思ったりするわけで、それが無いと言われてしまうと、元も子もないじゃないかと感じてしまいます。

そんな私の思いに関わりなく、キタオさんは話を続けます。「諸法無我」には2つの意味があります。一つ目は「固定した実体(モノ)」としての「我(われ)」は無いということです。しかし、「変化する現象(コト)」としての「我」はあります。実は今の自分の肉体も、ものすごい勢いで変化しているのです。モノとしての肉体を突き詰めると、そのおおもとは「原子」や「素粒子」で構成されていることは聞いたことがあるでしょう。

さらに突き詰めると「波動」というものがそのおおもとにあるのではないか、と最先端の科学では考えられています。これは仏教で言う「空」というエネルギーではないかと思うのです。そして素粒子というのは光の速さで生滅を繰り返している、ということが現代の科学でわかっています。つまり我々の体も、素粒子がもの凄い早さで生まれたり消えたりを繰り返している現象と言えるのです。

自分でこれをコントロールすることなど、出来ないのです。私たちは、自分のことは自分の意志でコントロール出来ていると思っていますが、実際はコントロールなど出来ていません。怒るのをやめようと思っても、すぐに怒りはわいてくるものなのです。

※このあたりのお話は、縁ともの平塚真弘さんが「宗教観を素粒子レベルで紐解いてみる」の中で様々な視点から考察されています。ご興味がある方はそちらも参照してみてください。
宗教観を素粒子レベルで紐解いてみる  http://www.hotke1.sakura.ne.jp/wp/author/hiratsuka/

話が原子物理学にまで及んできましたが、確かにそうですね。自分の体を構成する素粒子を自分の意志で生滅させたりするなどというコントロールはできません。目に見えないことなので実感は薄いですが、物質はそのように出来ているということだけはなんとなく理解しています。

しかし、お釈迦さまがこのことを悟っていたということは、きっと我々とは全く違う世界が見えていたのかもしれませんね。

さらにキタオさんは話を続けます。「諸法無我」のもう一つの意味は、「全ては網の目のようにつながって存在している」ということです。「つながっている」ということは「支え合っている」ということです。このことを私の師匠は「世の中、もちつ、もたれつである」と言っています。

キタオさんの師匠は、「もちつ、もたれつなんだから、ひと様に対し思いやりの実践をしなさい」と常々おっしゃっているそうです。あるときお弟子さんの一人が「そんなにひと様のことばかりやっていたら、自分のことがおろそかになりませんか?」と聞いたところ、「どんなに頑張って、ひと様のことを先に考えようとしても、半分くらいは自分のことを考えているものです。だから、安心してひと様第一に考えなさい」と言われたそうです。

今回、諸法無我の教えで学んだことは、単独で存在できるもの(常一主宰者としての我)は無く、自分自身の存在も絶対的なものでなく現象にすぎない。だから、自分で自分をコントロールできるなどと思うのも妄想だった、ということでした。そして、すべてはつながり、支え合って、もちつ、もたれつの関係なのだから、まず、ひと様のことを先に考えて行動しよう、ということが大切だと学びました。

ここまで、すべての現象が備えている「性質」である三大真理を学んできました。次回はすべての現象に当てはまる法則、「縁起」です。お楽しみに…

最後に私がキタオさんから聞いた内容のメモを添付しますので、興味がある方は参照してください。

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ホッと家のこづかいさん

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一般の社会人。ずっとマーケティングの仕事をしてきました。
若い頃出会った「ほとけさまの教え」に感銘を受け、みんなが幸せになるためには、この考え方、生き方が広がることが大事だと思っています。
で、微力ながらも社会の役に立つ人間になるために奮闘中。

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