母がいろいろな信仰団体のお客さんの様になった。だが、母にすると、もとの信仰から離れたのではなかった。山の頂に上る道はいろいろある様に、どの宗教もすべて同じ頂に通じる。これが、創設者が説いたことだった。だから自分は縁のある所に勉強に行って、それを確認している。どこも風評に捉われなければ、中身は、素晴らしい教えだと云う。周りが、心配して見ていたのとは、異なる一歩高い景色を見ているようなことを云う。
兄嫁に、お布施を強要したのは、更に信仰的に高まってほしいからだ。もとの信仰団体では、昔と違って、もうそこまで踏み込んで、修行をかける事を言わなくなった。それを説いてくれる機会に出会ったから、その流れに乗りなさいと云った迄。兄嫁の信仰が、すべてに中途半端に終わっている。それを乗り越えてもらうためだ。出会うもの全てが、仏様の説法だからと云う。
兄は受け入れない。そんな無茶苦茶な話はないと、兄嫁を庇う。自分の体も病んでいた。C型肝炎だ。子供のころの予防接種の注射針の使いまわしが原因だ。そんな自分と母の面倒を見ている兄嫁だ。この件以来、母のいる二階に顔を見せることもなくなった。この後、母が入院し、長期間療養の後、病院先で息を引き取る迄、見舞いに行く事も出来ない体になっていた。それ故、尚更に、母と兄の間の溝は深く遠いものになった。あれほど強く繋がっていた母と兄の見せる違った姿だった。
母は不思議な姿も見せてくれた。まだ溝浚い(どぶさらい)ができる頃のことだ。中南米の野球仲間の奥さんから一年以上に亘り、国際電話があった。彼女の夫が政変により、投獄された。生死の危険もあった。その様な状況で、父が、世界の野球界に声をかけ金銭面を含め支援した。そのお礼も兼ねて、電話が、月に一度はかかる。毎回1時間位。その都度、悲しみと不安を訴える。相手はスペイン語だ。母は全く話せない。片言だけの英語で相槌をうつ。それだけで十分なのだ。心が通じ合う。聞く側の母も涙を流している。相手も癒されている。
母が、二度目の心筋梗塞のような症状で入院した。「国二」と呼ばれた駒沢の病院では、父が泊りがけで付き添った。病院の看護婦さん達の間でも、有名な献身ぶりだった。宗旨替えしたような姿を、周りの人に見せてくれた。私にしてみると、今迄が何だったんだとの思いもあった。一方で、父母が、その身をもって、反面教師として教えてくれている姿だ。僅かでも、そう思える年ごろに私もなっていた。
父は、必要な時にだけ、病院から野球界の会合に出かけていた。帰る先も病院だということが、周りの人たちに知れ渡っていた。従い、いろいろな人が千客万来お見舞いに訪れた。「国二」の近くに住むTVで有名な野球界の大親分と呼ばれる人まで、訪れた。母の古い友人達も訪れた。他の信仰団体の人は来なくなったが、手かざしの治療をしてくれる友人は、最後まで来てくれた。家の近所からは、溝浚い(どぶさらい)が縁の母のファンのお婆さん達も来た。兄嫁が、父の必要なものを届ける車で、やって来た。
「国二」も徹底的に調べて、打ち手がないとなると、他に転院した。親戚の医者の伝手で、川崎へ。最後は、父の後輩の伝手で、小田急線の海老名へ移った。矢張り距離が遠くなり、時間が過ぎるほど、訪れる人は少なくなった。父は、相変わらず、東京にいる時は、許される限り病院に寝泊まりした。
身体は、衰弱して、機能は衰えてくるが、母の頭だけは健在だった。記憶は衰えない。話も声は小さくとも、中身は確り(しっかり)している。皆が永い看病で疲れていた。私も不覚にも、そのような素振りが出てしまったことがあった。何時もの通り、片道2時間かけ病院に行った。顔を見て少し話しただけで、何時もより酷い疲れを感じた。言葉少なく、そのまま帰宅してしまった。その数日後、父に、ものを取りに自宅に帰ってくれるように頼んだ。その間一人で、旅立った。或いは、父と話し合った結果かもしれない。最期の時まで、確り(しっかり)とした判断をする人だった。
以上