「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉があります。仏教のお経の書き出しの言葉です。「かくのごとく私は聞きました」という意味で、仏教が口伝で伝えられてきた名残なのでしょう。仏教に興味を持った私は「縁がわ仏教講座」でもおなじみの、サティ〜ずのキタオさんから、お釈迦さまが直接説かれたという「根本仏教」のお話を聞いて、聞きかじったことをここに記して行きたいと思います。
第一話 何のために仏教を学ぶのか
仏教の原点
普通の人が仏教といえば、最初に連想するのがお葬式です。たとえば「南無阿弥陀仏」の浄土真宗。「南無妙法蓮華経」の日蓮宗。宗派によってお葬式で読まれるお経は変わってきますが、キタオさんによるとそれらのお経、「阿弥陀経」や「法華経」「般若経」「華厳経」などの大乗経典は、お釈迦さまが直接説かれたものとは少し違うといいます。仏滅後数百年たって、お釈迦さまの教えに「浄土思想」や「空の思想」など、様々な思想が盛り込まれて成立した経典群、それが日本に伝わった数々の大乗経典なのです。
それではお釈迦さまが実際に説かれた教えはどのようなものなのか?それがこれから学んで行こうとする「根本仏教」なのです。「根本仏教」とは今から2500年くらい前、お釈迦さまが生きている頃に直接説かれた教えです。それが弟子たちによって伝えられて来ました。きっと様々なことの本質を突いた教えだったからこそ、こんなに長い間伝えられてきたのだと感心してしまいます 。
本論に入る前にキタオさんが話したことは、「何のために仏道修行をするのか」ということです。どんなものでもそうですが、何のために行うのかを明確にすることで、目的を見失わずにいることができますからね。
そもそもお釈迦さまが悟りをひらいたことから始まる仏教は、お釈迦さまが出家するところにその原点があります。お釈迦さまは大国に挟まれながらも栄えていた小国(釈迦国)の王子として生まれ、当時としては相当恵まれた環境に育ちます。ところが生後すぐ実の母が亡くなるなど、生きることや死別の悲しみなどを感じる多感な青年期を過ごしたのではないでしょうか。結婚して子が生まれ、通常であれば幸福の絶頂期に父や母、妻や子を捨て出家してしまいます。
この行為自体はまさに親不孝そのものですが、地位があり、名誉があっても本当の幸せを得ることはできないと考え、「人生の真実」や「本当の幸せ」を得るためにどうすれば良いのかを探すための出家だったのではないでしょうか。ここから考えると、仏道修行とは「本当の幸せ」を得るためのものと言っていいのだと思います。
幸せって何だっけ
街のいろいろな人に「幸せ」とは何か?を聞いてみると、様々な答えが返ってきます。「衣食住が整っていること」、「みんなと仲良く暮らすこと」、「人から感謝されること」。どれも幸せの条件かも知れませんがそれぞれの幸福感には差があります。この中では「人から感謝されること」というのが最も幸福の度合いが高いような気もしますが、それにしても人それぞれに違う幸せの条件が存在しています。
キタオさんの師匠は「幸福には実体が無い。あるのは幸福感だけである」と述べているそうです。実体が無いとは、「目に見えるような基準は無い」ということです。例えば年収800万円以上が幸福で、それ未満は不幸とか、住居面積が80㎡以上は幸福で、それ未満は不幸とか、そんな基準はありません。お金持ちでも自分は不幸だと感じている人も居れば、貧乏生活を送っていても自分は幸せだと感じている人が居るのも事実です。まったく条件が一緒でも幸せを感じている人がいれば、不幸と感じている人も居るわけです。つまり、「幸福」とはその人が置かれている状況に関わらず、その人の心が「幸せだなぁ」と感じている状態のことをさします。
仏教の修行は、「幸福」になるためにするわけですが、普通の人の心は、なかなかその「幸福」を感じられない構造をしているとキタオさんは言います。普通の人の心の構造は、他人を憎んだり、うらやんだり、自分の境遇を嘆いたりと、不幸を感じやすい構造を持っています。この構造を変えていくことが仏教の修行なのです。
仏教の修行の目的は、いつでも幸福を感じられる心の構造をつくること、となりますが、そのためにはこの世のすべての成り立ち(真理)を理解することが必要です。お釈迦さまは出家の後、様々な修行を経てその真理を体得され、仏(悟った人)となりました。そして弟子たちにその真理を説かれたのです。それが根本仏教の内容です。次回からはその真理についてキタオさんから教えてもらったことを記して行きたいと思います。
最後に私がキタオさんから聞きかじった内容のメモを添付しますので、興味がある方は参照してください。それでは次回をお楽しみに…
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