在家仏教を信仰する両親と三人兄妹(私は末っ子二女)。
そしてなぜか次々とわが家を訪れる人々との、なんとも不思議な日々。
昭和の終わりの混沌とした記憶を、自らが子育て奮闘中の今、順不同に綴ってみる。
飽くまで自分の記憶を頼りに、多少、盛りつつ♪
☆腹が据わるって、こういうコト
正直、このエピソードについては確かな記憶は無い。私はたぶん、4、5歳だった。
物心ついてから聞いた話が、おぼろげな記憶として脳に出来上がったのだと思う。
ただ、そのときのただならぬ空気感は、玄関に見え隠れしていた母の背中とともに、頭の中に残っている。
流行りの某ドラマほどではないが、「なぜここまで…」と言いたくなるほど個性的な人が集まっていたあのマンションでは、住人のすべてが、2階の最も手前に玄関があるわが家の前を通らなければ自分の家に行けず、ゆえに、誰彼かまわず話しかけるうちの母と話したことのない人はいなかった。
4階に住むとあるご夫婦も、例外ではなかった。ご主人がコワモテでも、母はいつも気さくに話しかけていたようだ。
そのうち、奥さんがたびたび母をたずねてくるようになった。いつも玄関で声をひそめ、何やら深刻なムードで母と話していた覚えがある。
でも、ある日のその時だけは、様子が明らかに違った。
なぜか胸がザワつき、落ち着かない。母の背中が見え隠れする玄関が、いつもより遠く暗く感じられた。
そのときの事実を聞いたのは、私が中学生になってからのこと。
あの日、コワモテのご主人がうちに乗り込んできたらしい。
「女房に余計なこと吹き込んでるのはお前か!」
奥さんはうちの母に、ご主人にその世界から足を洗ってもらうにはどうしたらいいかを相談していたのだという。
母は何度も話を聞きながら、ご主人を立てるなどの家庭での実践、ご先祖さまを供養することの大切さなどを伝えていた。
妻の変化を察知したご主人は、奥さんを詰問し、うちの母が影響していることを知り、乗り込んできたのだった。
「お前なんか、簡単にぶっ潰せるんだぞ!」
おばちゃん相手にスゴむ男に、母はとうとう居直った。
「あなたの奥さんはねえ、あなたに足を洗ってほしいんですよ。あなたと幸せな生活を送りたくて必死にがんばってるの! 女一人幸せにできないで、それでも一人前の男ですか!? 私はねえ、あなたの奥さんに幸せになってもらいたいって、真剣に思っているんです!!」
母の啖呵の前に、ご主人は言葉を失い、そのまま家に戻って行ったという。涙を流し何度も母に頭を下げながら、奥さんがその後を追った。
そのエピソードを聞き、「すごい度胸だね。怖くなかったの?」とたずねると、「怖かったけど、奥さん本当に一生懸命だったから、どうしても救われてほしくって。あとは仏さまにお任せだ!って思ったら、腹が据わったのよ」と母。
誰かに“幸せになってほしい”という願いは、“仏さまにお任せ”という境地は、そこまで人を強くするのか…。
で、そのご主人。なんと本当にその世界から足を洗ったのだそう。夫婦そろってわが家に上がり、ご主人は指を詰め包帯を巻いた手を畳について、深々と頭を下げた。そして、「ご迷惑をおかけしては申し訳ないので、引っ越し先は言わずに行きます」と、古巣の息が届かない、遠方の地へ去っていったという。
今は80を過ぎた母の、昭和の武勇伝。
“腹が据わる”って、きっと、こういうことなんだろう。
次は、“屁理屈大学生と父の対話”のお話です。