母の体調は、日増しに悪くなっていった。駅の近くの商店街で、夕食の買い物をしても、大変疲れた様子で、家に帰ってくる。家族の食事の用意をやっとして、そのまま、休ませてくれと寝込んでしまう。体力を消耗している。そんな日々が続く。夏の日差しが暑い。それでも予定通り、白装束を着て、お山に行くという。同行の人々と、太鼓を叩いてお山に登る。一泊二日で帰ってくる修行だ。その当時は、行き帰りの列車の中のトイレも、きれいに清掃してくる。
母は、山に登る途中、倒れてしまう。同行の人々に、腰にロープを結んで、引き上げて貰ったり、背負って貰ったりした。途中、意識も薄れ、下の世話までして貰った。
それでも、同行の人々の助けで、生きて帰って来た。母は、只々感謝し、懺悔した。
父が家を出て、なかなか帰らなくなって久しい。たまに戻ると、夜遅く声を潜めた、鋭い言葉でやり取りをしていた。父は既に別の家を構えていた。そこに女の子も生まれている。相手の人の名前は、母が、信仰団体から選名として、頂いた名前と全く同じだ。父を挟んで、同じ名前の人が、二人いることと同じだった。更には、いよいよ別れる話だ。兄が母のもとに、私は父のもとに行くと云う事が、父の出した条件だ。
この事を背負いながら、母は、苦悩した。年が明けると、節分前に、寒行に毎日出かけた。お山より戻って半年、寝込んだり起きたりで、体力は回復していない。子供心に、「このままでは、死んじゃうよ。」と心配した。それでも、ピリピリするほどの気迫のようなモノが、オーラのように、母を覆っていた。何かに守られている様だった。
突然の変化がほどなくして起こった。父の相手の人が、病気で急逝した。脳腫瘍だ。急展開だった。父を含め周りは、唖然とした。残されたのは、女の子。母親の両親のもとに引き取られ、北国に戻った。又、変化が起きた。伯母さんの家に、その子が落ち着いて、一年がたった。今度はそこの主人が、当時としては不治の病で入院した。この女の子の先々を考え、どうするか、何モノかに、問い掛けられている。
母は、決断をする。「何のためにしてきた信心か?」という踏み込んだ問い掛けに対し、踏み込んで受け止めた。「何人もいる自分の水子の一人が、帰って来る。」と思い込んだ。常識を乗り越えたところにいる。そういう抜身の刀で切りかかる様な指導だ。それを受けて苦行する。見守り、支える同行の人々が、幾重にも周りを、取り巻いていた。そんな中で、母は守られていた。
我が家に突然、小学校一年生の女の子が、登場した。私達兄弟にとっては、何とも腫れ物に触るような、気分だった。母は、一緒にお風呂に入り、何処にも一緒に連れて行った。母親の家にいる時間が増えた。それまでしていた役割を、総て降りて、新しい家族を迎え入れることに徹した。
「我が家の子として、妹として、大切に育てますから。」父以外の我が家の顔として、先方に出向く役割は、私が選ばれた。父の側に付いて行く筈だったことによる。
それは、父に誘われて、野球を見に行った中学時代のある日だ。熱戦で、私は試合に没頭していた。途中で、父に呼び出され、通路の暗がりで、人に紹介された。見ず知らずの女性と小さな女の子だ。父に促されて、挨拶をした。僅かの間の出来事だ。全く状況が理解できていなかった。記憶からもすぐ消えた。後年に成って、母から指摘された。記憶を辿り、おぼろげに思い起されたが、顔も暗がりだったせいか思い浮かばなかった。でも、妹の記憶には、鮮明に残っていた様だ。「これが、お兄ちゃんだ。」
この出来事が、後々、母と私の間について回る。
「裏切り者。」何かの折に、冷たいモノが、母から私にぶつけられる。何の事を言っているのか、分からない。お風呂に入るたび、妹が繰り返し、その時の印象を言うらしい。まだ、三歳にもならない頃のことだ。周りから言われたことが、記憶に成っているのかもしれない。
「冷たい子だ。」「何を考えているのか分からない。」「こんな子に育てたつもりはない。」色々なセリフが、何かの拍子に、母の口から呟かれる。様々なことが起きてきた家の中で、これ以上波風が立つのはごめんだ。何かを言えば、又、父に跳ね返り、騒動が起こる。自分を守る意味でも、反応しないことにしていた。これがまた、「腹黒い奴。」になる。
でも、いつも迄もそう思っている姿ではない。今までと変わらない母の姿に戻る。
次回は、母が大決心しての引越しの話です。