エッセー

ヤッシーのきまま見聞録⑩

私の名前はヤッシー。会社人生は終わった人ですが、第二の人生はこれから。会社の重しが取れた身軽さで見たこと、聞いたことをきまま(気まま、生まま)にお伝えします。きままなので、悪しからず不定期です。

「明治の木造洋風建築を訪ねて」

先日、長野県松本市にある「旧開智学校校舎」を文化審議会が国宝に指定するように柴山文部科学相に答申したとのニュースがありました。旧開智学校は1876年(明治9年)に建てられた小学校で、明治政府が1872年(明治5年)に全国に学校を整備する「学制」を発布したのを受けて建設された最初期の小学校のひとつです。木造2階建てで八角形の塔屋や唐破風屋根など「擬洋風」という和洋折衷のデザインが特徴です。地元の大工の立石清重が東京や横浜にある洋風建築の様式を勉強しながら独自の擬洋風の建築に挑戦しました。

実は私は今から40年前にこの旧開智学校校舎を訪ねたことがあります。会社での仕事でしたが、明治時代に建てられた木造洋風建築を全国に訪ねて紹介するという企画の中で旧開智学校を取り上げました。旧開智学校校舎もそうですが、鎖国が続いた江戸の時代から新しい明治の時代になり、建築の分野でも文明開化、西洋化の波が全国に押し寄せました。北海道から九州まで全国各地に擬洋風と呼ばれる洋風建築が数多く建設されました。その企画では当時建てられた洋風建築の中でも特に木造建築に味わい深い建物が数多くあるので、それらを訪ねて20回ほどのシリーズとなりました。

今ではインターネットが普及し手元でいくらでも関連資料を調べられますが、その企画を始めた頃はまだインターネットのかけらもない時代。全国のどのあたりに明治の木造洋風建築が残っているのか、調べるだけで結構手間がかかりました。それでもそれはそれで楽しいこと。何とかその建物の存在を突き止め、実際に現地に赴き対面した時には一種の感動を覚えたものでした。

私の定年退職後のやりたいことのひとつは、これらの明治の木造洋風建築を再び訪ね歩き再会する旅です。北海道で取り上げた函館市の旧函館区公会堂と札幌市時計台にはすでに再会を果たしました。旧函館区公会堂は40年前に訪ねた時には外壁がピンク色でしたが、再会した時にはそれが明るいクリーム色へと変身していて驚きました。神戸の北野の異人館にも大阪に転勤した時に再会しましたが、その他の建物については再会を果たせていません。そろそろどこかの木造洋風建築を訪ねる旅に出たいと思っていた、そんな矢先に旧開智学校校舎の国宝指定に向けてのニュースがあったので、訪ねた当時を懐かしく思い出し再会したくなりました。

私なりに明治の木造洋風建築を建てた目的や用途、経緯などから大まかに分類すると次の5つになると思います。
1つ目は学校や役所、病院、警察署、税務署、裁判所、駅舎などの公共的な施設です。私が企画で取り上げた中では旧函館区公会堂、札幌市時計台、山形市の旧済生館本館(山形市郷土館)、松本市の旧開智学校などがこれでした。
2つ目はキリスト教の教会です。これは全国にかなり多くあり、私も青森・弘前市の日本キリスト教会・弘前教会礼拝堂などいくつかを訪ねました。
3つ目はキリスト教の宣教師や学校の教師、技師、建築家、貿易商などとして来日した外国人の住まいです。東京・港区の明治学院大学構内にあるインブリー館や熊本洋学校教師館ジェーンズ邸、旧鹿児島紡績所技師館(異人館)、弘前市の旧東奥義塾外人教師館などを訪ねました。長崎の旧グラバー住宅(文久3年築の日本で最古の木造洋風建築)や神戸の旧ハッサム邸、旧ハンター邸、北野の異人館の多くもこの種の建物です。
4つ目はハイカラな洋風の店舗や社屋で近代的なイメージで新しい時代に商売をしようとして建てた洋館です。時計店や写真館、陶器店などが今でも各地に残っています。
5つ目は、進取の精神に富んだ日本人の実業家などが建てた住まいです。北九州市の旧松本家住宅、明治村にある西郷従道邸などです。青森・平川市にある盛美館などは1階が純和風、2階が洋風の和洋折衷の特徴的な建築で、目の当たりにした時はしばし見とれていたのを今でも鮮明に覚えています。

このように明治の木造洋風建築は文明開化の波に乗って全国各地に建てられましたが、地域別に見ると異人館通りのイメージが強い神戸や開港した港町などに多くあるように思われますが、意外と多いのは青森県の弘前市です。旧津軽藩主の城下町だった弘前市は青森市に県庁所在地が行ってしまったことなどもあり、教育の振興に力を入れ外国人教師や宣教師を積極的に招聘したといいます。その結果、東北はもちろん、日本でも有数の明治の木造洋風建築の残る街となりました。

以前、「ヤッシーのきまま見聞録⑥」で自家焙煎珈琲の名店「コフィア」を訪ねて山形の鶴岡市に行った話をご紹介しましたが、実は鶴岡市でも明治の木造洋風建築に遭遇しました。旧西田川郡役所と旧鶴岡警察署庁舎です。旧西田川郡役所が建てられたのは1881年(明治14年)。赤い瓦と白い壁のコントラストが美しい洋風建築で、建物1階正面に大きなドアの玄関を配しその上部にはバルコニー。さらに上部には塔屋と時計台もあり、高さが20メートルぐらいある堂々とした洋風建築です。旧鶴岡市警察署庁舎は1884年(明治17年)に建てられた警察署とは思えないしゃれた木造洋風建築です。この二つの洋風建築は初代県令の三島通庸の命によって建てられたといいます。実は山形市の旧済生館本館は、当時は山形県立病院でしたが、これも三島通庸の肝いりで造られたものです。明治新政府の文明開化への並々ならぬ決意、意気込みが感じられます。

明治時代に建てられた木造洋風建築は地元の大工などが必死に建築様式を学び知恵を絞って造り上げた擬洋風の建物です。まずはその建物自体、様式を見ることが興味深いのですが、それと同時にその洋風建築に暮らした人々の生活、生きざまにも興味をひかれます。弘前市に現在ある旧東奥義塾外人教師館の前の建物に住んでいたカナダ出身の宣教師の奥様、アレキサンダー夫人は、ご自身も幼児がいらしたこともあって子守学校(幼稚園の前身)に携わるなど幼児教育に熱心に取り組まれていましたが、不幸にも明治32年に起きた火災で亡くなられました。このアレキサンダー夫人の不慮の死に心を痛めた市民は市内の最勝院に大理石の洋式のお墓を建てて弔いました。多くの募金も集まり、それをもとに幼稚園も建てられました。明治の文明開化で国が発展していく中では、そうして異国の地で日本に貢献しながらも尊い命を落とされた外国の方もいらしたのです。今も各地に残る明治の洋風建築にはそれに関わった方々の生きざま、歴史が秘められているのです。

令和の時代になり「明治は遠くになりにけり」の感はますますありますが、明治の洋風建築、そしてそれに関わった人々の生きざま、歴史には時代を超えて学ぶべきものがいっぱい詰まっているように思えます。


追伸:ヤッシーが本の第2弾を出しました。「働く方・働く場改革 人と職場を活性化する笑談力・考動力 〜笑いをうむ19(いっきゅう)のワザ〜」(ビジネス教育出版社)。ご購読いただければ「笑いのコミュニケーション」と「考えて動く力」を磨くための一助となるはずです。

ヤッシー

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