第三話 「昔、三上(さんじょう)。今、何上(なんじょう)」
この間、東京のJR中央線に乗った時、感動したことがあった。姿を観ると、制服で帽子をかぶっているから、きっと名のある私立小学校の生徒だと思う。席が空いているのに、立ちながら本をよんでいるので感心だなと思って、その子が読んでいる本の表紙を見ると、「相対性理論」の文字が。
「えっ!その歳で、それを読むかい?」と、その子の顔をまじまじと見てしまった。まだ幼い顔立ちをしているから、低学年の子だと思う。「何故、その本を?」「どんなキッカケで?」「親の顔が見てみたい」などと、勝手にその子の物語をつくり始めている自分がいた。
そもそも、今の時代、電車で本を読んでいる人が、ほぼ、いない。新聞だってそうだ。満員電車の中で、一瞬の隙間を一種の特技と想えるような折り畳み方をして、新聞を読んでいる姿には感動した時代もあったのだ。それなのに、今は、スマートフォンでしか見かけない。あの折り畳んだら分厚くなる新聞紙を、極限まで小さく折りたたむ日本芸は、若者に継承されず、消え失せてしまったようだ。
昔の人は、何かを考える時や文章を練るのに良い場所として、「三上」と呼ばれる場所があると言っていた。まずは「馬上」。馬に乗っている時だ。今で言えば、電車の中かな?
次に「枕上」。つまり、昼寝でも就寝の時でも良いが、枕に頭をのせている時だ。僕のベットの枕元には、必ず本が置いてある。
最後は、私の好きな「厠上」である。トイレで便器に座し、本を読むのは私の日課である。ちなみに、トイレで読む本でお勧めなのは、小学館の「本の窓」である。
この雑誌は良いとこだらけである。まず、毎月、郵送で定期的に届き、年間12冊で1000円である。安すぎる。また、素晴らしい作者のさまざまなエッセイなどが載っていいて、「逆説の日本史」で有名な井沢元彦のコミック版「逆説の日本史」の連載もすごく面白い。なんといっても、コーナーごとに読む時間が、私のトイレタイムと相性がピッタリなのである。トイレにいながら、さまざまな世界に思考がワープできるのだからありがたい。
何も、トイレでなくてもよいのだが、人には、思考をフリーにする場所が必要だと思う。今の時代は、なおさらだ。しかし、電車の中のスマートフォンは許せるにしても、自転車に乗りながらは止めてもらいたい。そして、皆に「本を読もうよ」と語りかけたい。
本は、過去と現在と未来をつなぐタイムマシーンで、誰もが過ごした子供時代の憧れだったと思うのですがね。とにかく、自分の「三上」を見つけよう。