東京に戻ってから、一段とギアアップした母の苦労が始まる。
下関より、一泊二日の夜行列車で、品川駅に帰り着いた。母はやせ細っていた。駅頭には、これまた、痩せて細身の父が出迎えていた。父から離れて階段に降りる近くで、祖母が出迎えていた。着物姿の、当時の女性としては、長身の人だった。
住まいは、池上線の石川台だった。父の仕事は、少しは、土台が出来始めていたが、一進一退だった。朝鮮戦争特需で、繊維関係は、恩恵にあずかっている処はあるが、父の会社のレベルでは、まだまだ大変だった。時々、父が家に帰ってから、表札を外せと言って、母に命じていることもあった。しかし、家庭内は波風は立たず、概ね、平穏だった。祖母も、姉の家に治まっていた。母に言われて、兄弟で、下関の養母に、何回か手紙を出した。「東京に来て一緒に住んで下さい。」と繰り返し書いた。
この頃、隣の駅の近くに有る、産婦人科に、母の見舞いに行った記憶が有る。後年、分かるが、家の過去帳に、何人か、水子の戒名が有る。父の事業が未だ軌道に乗らず、経済的にも、苦しかったため、堕したようだ。年子で、続いていることもある。もう男の子と性別が、分っていた戒名もある。
私が大学生になった頃、母が、もらしたことが有る。私の時も、父は何度も堕せと言っていたそうだ。母は、その度に抵抗した。その時には、海に入って死のうかと思った時もあったと云う。「何とか、あんたを生んでおいて、よかったと思ったんだ。」と呟いた。
平穏な日常が、破れる時が訪れた。祖母が、突然、姉の家から、風呂敷包み一つで戻ってきた。「あの家には、どうしても住めない。」の一点張りだった。姉は、長男のいる医者の家に、後妻に入っている。この長男が、まず、継母に次いで、更に、祖母と住むのを嫌がった。住居側には、居る場所もない。診療室と病室のある棟で、入院患者用の畳張りの一部屋が宛がわれた。そこでただ一人で、置いておかれるのは、堪らなかったようだ。
どんなに、父に毛嫌いされても、「この家にいる。」と頑張った。玄関脇の三畳間に、風呂敷を置いて、陣取ったまま動かない。母にとって、一番の苦労の原因をこの祖母が、もたらすことに成る。
一回目のリセットは、失敗した。この頃より、我が家に嫌気した父の女性関係が、活発になったようだ。もともと、女性には、モテる。過去帳に、母以外の水子が登場し始める。また、事業が好転した時でも、祖母の分は無いとばかりに、我が家には、ぎりぎりの生活費しか入れない事を、徹底し始める。母の節約と遣り繰りの日々が、始まる。
この頃、母は父の伯母に誘われて、中野の広い庭に茣蓙を広げ、沢山の人が集まっている信仰団体に、行き始めた。そこで、「総ては、あなたが原因だ。」と云われて、なかなか理解出来なかったようだ。悶々としながら、毎日のように、同行の人達の遠方の家を回って、夕方に家に帰ってくる。この頃より、私は病弱になり始めた。母が悶々とするたびに、私が家で、ひきつけを起し出した。外で起こすこともある。その時は、祖母の手助けが、必要になりだした。
また、幼稚園の遠足等も、母の代わりに祖母が、病弱の私の保護者として、付いて来た。子供の頃の写真に、遠足や博物館等見学先で、祖母が、一緒に写っている写真が残っている。母は、一枚もない。母の居ない間の食事の世話は、祖母がした。祖母が好きなチーズの味や、納豆に砂糖を入れる食べ方、又、塩辛等、嗜好品の味も、教えてくれた。祖母の僅かに持っていた、姉の家で貰っていた、お小遣いから、出してくれていた様だ。これらのことも、父の気に入らない、癪のタネになった。
家にいると、父が、殊更に不機嫌そうな、苦虫をつぶしたような顔をつくることが多くなった。その度に、母が小さくなっていた。ただ、教育に対してだけは、母は、出来るだけのことをしようとしてくれた。幼稚園も、二駅ほど離れた、幼児教育に長けた、ベテランのシスターたちがいるキリスト教系の幼稚園を選んだ。兄には、教育者として有名な、年配の校長先生がいる小学校を選んでいる。洗足池を挟んで反対側に有り、子供の足で小一時間はかかる。
この様な中で、父は、二回目のリセットを試みる。私の幼稚園や、兄の学校により近く、且つ、祖母の居る小部屋のない家を選んだ。祖母は、再度、母の姉の家に戻って行った。
次は、二度目のリセットから、母の苦闘の本番が、始まる話です。