母と、兄弟二人は、下関の地にいた。父の養母は、台湾から引き揚げ、下関の地で、旅館を始めていた。子供達には、兄が、ツベルクリン反応で、陽転したため用心して、空気の良い田舎に移住したと説明されていた。父は、東京の地で勝負する為、一人で事業の土台作りに集中した。養母と私たち母子を近づけ、先々同居すること。同居してきた母の祖母を、医者の嫁に成っている姉のもとに、移り住んでもらうこと。このリセットを目指していた。父の目論んだことだ。
下関の家は、海岸沿いを走る国道から、二筋程内陸側に入ったところに有る。二階建てに、外が見渡せる程度の、小さい三階部分が付いていた。かなり古びて、傷んでいる。お客さんが寝泊まりし、小規模の宴会も出来る。養母の故郷岡山から親戚も呼び、一緒に手伝わせていた。板前のお爺さんもいた。そんなところに親子三人が移り住んだ。母は、覚悟していただろうが、大変な気苦労だったことは想像に難くない。
養母の旅館業の下働きをしつつ、裏方の仕事だけと手伝った。しかし、配膳だけでは済まず、お酌しろとか、お客さんに、いろいろ言われるのを断るのに苦労したと、こぼしていた。また、岡山の親戚の親子三代三人が、別棟の小さな建物に住んで、手伝っている。そこの御婆さんは、養母の妹。娘は、母と同じ年齢。子供は、丁度、私と兄の中間の歳だ。母子家庭だ。母は、この人に何かと意地悪された様だ。直系の孫の私達兄弟二人が、何事もまず先で、優遇される。この子は、それまではとは違い、なんとなく養母が後回しにする。その分母が当たられた。
全てにおいて自分を一番劣後にして、生活をした。食事も、風呂に入るのも、全て一番最後だ。掃除も、洗濯も、手間のかかる大変な仕事を、引き受けた。食事が残り物で、冷たくなったものを食べることは、戦後の大変な時期を経てきた中で覚悟してきたことだった。後のことも、気にしなかったようだが、お風呂だけは参ったと、後日溢していた。五右衛門風呂で、何人も入るとぬるく、お湯も汚れてしまう。髪の毛も一杯入っていて、とても入れる代物で無かったようだ。これだけが一番困ったことだった。
兄弟二人は、新しい環境に順応した。家の周りの土塀の根元には、カニの巣が有り、多くのカニが這っていた。格好の遊び相手だ。門の前の塀伝いに、毎日魚屋が来て、トロ箱に、魚を入れて、店開きをしていた。近所の人が買いに来る。そこに張り付いて、一匹一匹名前を尋ねる。暫くすると大概の魚の名前は覚えてしまった。ある日、塀に登っていた。買った魚を抱えた、ツル禿の板前のお爺さんの姿が見えた。調理場の方に入る手前で、下を通るお爺さんの頭の辺りを小突いた。空いた片手で、足を引っ張られ、怒られたが、塀の上で、きゃっきゃと喜んで、始末に負えない。悪がきの面も出てきた。こんな事も、母が肩身が狭くなるもとに成った。
兄も学校の友達の家に、かなり遠くまで、遠征して回ったり、仲間で川に魚釣りに行ったりしていた。一方で、兄だけが、便所で、ムカデに刺され、何度か大騒ぎした。母も一度やられた。ムカデの油漬けにした液が、特効薬だった。また、廊下で、“かまいたち”と言われる原因不明の現象が起きた。兄の足の甲が、突然ぱっくり割れて、殆ど血が出ない。傷跡は後年長く残っていた。
兄が学校へ行った後、母が仕事の合間に、兄への弁当を作った。それを届けに行くのが私の役割だった。広い校庭を横切り、校舎の中に入る。授業を見回り中の何時も同じお爺さんに、手渡した。一年生の兄に渡してくださいと頼んでいた。東京の言葉だし、それだけで通じた。後日それが、校長先生だったと分かった。子供の目には用務員のお爺さんも、同じに見えて見分けがつかなかった。実際、腰から手拭いを下げて、腰が少し曲がり、同じ雰囲気だった。
学校からの帰り道、田圃の中の道伝いで、牛を数頭かっている牛乳屋さんに毎日寄った。自分の分の牛乳を一本貰って帰る。こんなことも優遇されていた。ある日、この牛乳が、何か酸っぱくトロンとして、変だった。それでも全部飲んでしまってから、母に伝えた。母は心配したが、お腹の具合は何事も起こらなかった。
後年病弱になる私だが、母が何事につけ、苦労している分、この時期は、兄弟そろって元気だった。その様に計らわれていたのかもしれない。
父は一度だけ、大阪での仕事のついでに、足を延ばし、様子を見に来た。この頃は痩せて、顎がとがっていた。この時だけ、養母の配慮で、母も入れて、一家で、揃って夕食をした。翌日は、兄弟と海の所まで、散歩した後、少しの時間だけ、裏の畑の所で、遊んでくれた。この時に、軽々と塀に登り、夏ミカンを取って、一房ごと剥いて食べさせてくれた。余り家族へは見せない、父の温かいぬくもりのある一コマとして、記憶に残っている。その後、慌ただしく帰京した。
次は、東京に戻ってからの、一段とギアアップしていく母の苦労話です。