その日、ホッと家の縁がわで時間を潰していたのは、常連のキタオではなく、主婦のユキコだった。
縁がわに腰かけて足をブラブラさせたり、スマホを開いては閉じたり。落ち着かない様子で過ごしていると、そこへキタオが現れた。
「キタオさん、やっと来た! も〜。こういう時に限っていないんだから。20分も待っちゃいましたよ(怒)」
「ああ、それはすみませんでした。」つい謝りながら、「別に約束していたわけじゃないんだけどな…」と心の中でつぶやくキタオ。彼が縁がわに腰を下ろすより先にユキコから飛び出したのは、キタオへのクレームだった。
7つの実践、やってみたけど効果ナシ!?
「全然ダメなんですけど! この前教えてくれた7つの実践。古株さんにいくつかやってみたら、関係が良くなるどころか、逆に古株さんを怒らせちゃいましたよ〜。」
古株さんとは、パート先の先輩で、目下ユキコの天敵となっている人物。 その状況を改善すべく、キタオが提示した「人間関係改善法〜7つの実践」とは、以下の通り。
① 誉める(性格でも、仕事ぶりでも、服装でも何でもよい)
② 相手が目に入ったら、こちらから挨拶をする(こちらから、が大切)
③ 呼ばれたら、明るく『ハイ!』と返事をする
④ ものを尋ねる(教えてください、という姿勢で)
⑤ ものを頼む(これはあなたじゃなきゃ、と誉めながら)
⑥ 心からお礼を言う(④や⑤に相手が応えてくれたことに対して)
⑦ 相手が相談してきたら、話をよく聞く(じっくりと、真剣に)
キタオはユキコの言葉に別段驚いた様子もなく尋ねた。
「それは大変でしたね。どのように実践したのか、詳しく教えてください。」
「とにかくまずは誉めてみようと思って機会を狙っていたら、クレームをつけてきたお客さまに上手に対応していたので、『さすがベテランですね!』って誉めたんです。そうしたら『歳とってて悪かったわね』って、にらまれちゃって。あと、“ものを尋ねる”のもやってみようと思って、レジの操作を忘れたフリして聞いてみたら、『あなたもう入って何カ月も経つのにそんなことも分かってないの!?』って叱られちゃって。もうさんざんでしたよ〜。」
ユキコの訴えを黙って聴いていたキタオは、にっこり頷きながら言った。
「さっそく行動されたとはさすがですね! 実はあのとき、もう一つ大事なことを伝えたかったんです。でもユキコさん、サ〜ッと帰ってしまって。」
「ええぇっ! そうだったんですか? ちゃんと呼び止めてくださいよ〜。」
呼び止めたんだけど…とは言わずに、キタオは話を進める。
「ユキコさん、あなたにあらためてお聞きしたいことがあります。」
「え、何ですか?」
「ユキコさんは古株さんの長所を何か一つ挙げられますか?」
「いやー、今のところ見当たらないですねー。ないんじゃないですかね。(笑)」
「というように、私たちは『この人が嫌いだ』とか『この人は性格の悪い人だ』といったん思い込むと、いわば“怒り(否定する心)の色メガネ”をかけた状態となって、その人の“美点・長所”がいっさい目に入らなくなるんです。
一方、『この人が好きだ』とか『この人は良い人だ』と思い込むと“欲の色メガネ”をかけた状態となり、相手の“欠点・短所”はまるで見えなくなります。恋愛中の男女なんかはまさにこの状態で、“惚れた欲目”とか“あばたもえくぼ”なんて言いますよね。(笑)」
「なるほど。ということは、古株さんを嫌っている私は常に“怒りの色メガネ”で古株さんを見ているせいで、彼女の美点や長所が見えなくなっているというわけですね。」
「そうです。だからますます嫌いになる。そういう心のままで七つの実践をしても、相手を尊重しているというメッセージはなかなか伝わりません。それはそうですよね。実際には相手を嫌っているんですから。」
「たしかにそれは言えるかも…。じゃあどうすればいいんですか? 仏教って無理のない教えなんでしょ!?」
仏教は、あたり前のことをあたり前に理解し、あたり前に実践すれば幸せに生きられる、そんな無理のない教えであるというキタオの話を、ユキコはちゃんと覚えていた。
「そのとおりです。まずはユキコさんの古株さんに対する“怒りの色メガネ”をはずしましょうか。」
「どうやって?」
「“怒り”と正反対の心を育てるんですよ。そもそも人間は、相反する二つの感情を同時に持つことはできません。たとえば『大笑いしながら怒る』などということはできないんですね。それができるのは俳優の竹中直人氏だけです。」
「あれはお笑い芸でしょ!(笑) でもキタオさんの言ってることは、なんとなくわかります。『相反する感情は同時にもてない』か…。確かにそうですね。」
「ですから、怒りと正反対の心が育てば育った分だけ、怒りが発動する機会は減るというわけです。」
「なるほどね〜。じゃあ、怒りの正反対の心って何です?」
四無量心を育てる「慈悲の瞑想」
「怒りや嫉妬や不安といったネガティブ(否定的)な心の正反対に位置するのは、“四無量心(慈・悲・喜・捨)”という四つの優しい、肯定的な心です。
これらの心が育つと、人間はもちろん、すべての生命との関係がより良く展開していくんですよ。」
「すべての生命との関係!!なんか話が大きくなってきたんですケド。」
「まあまあ、古株さんにも当然有効ですから(笑)。ちなみに、四つの心をご説明すると、
“慈”(じ):慈しみ。相手の幸福を望む心。友情のような優しさ。
“悲”(ひ):憐れみ。相手の苦しみを除いてあげたいと思う心。
“喜”(き):喜び。相手の幸福を共に(我がことのように)喜ぶ心。
“捨”(しゃ):平静。とらわれのない落ち着いた心。差別のない平等な心。
ということになります。これらの心が育った人は、肯定的で優しく明るいオーラを発するようになるので、人間だけでなく他の生き物にも好かれるんですよ。」
「あ、そういえば私の知り合いに、『俺はなぜか子供と年寄りと犬にはやけに好かれるんだよな』と言ってる人がいます(笑)。たしかにその人と一緒にいるとなんか安心するというか、構えないですむというか。」
「なるほど。特に子供や動物は邪念が少ないので、その人が発している肯定的なオーラに敏感なのかもしれませんね。」
「いずれにしても、その四つの心を育てながら七つの実践をすれば、この前みたいに裏目に出て怒られることもなくなるんですね? その四無量心、どうやって育てるんですか?」
「やり方はとてもシンプルです。古株さんに対する“慈しみ”の心を育てる場合には『古株さんが幸せでありますように』と唱えるか、心の中で念じます。それを続けていると、『古株さんが幸せであってほしいな』という“慈”の心、つまり友情のような優しい気持ちが育ってくるんですよ。残りの三つの心も同じやり方で育てていきます。四つの心を育てる言葉をまとめると、
“慈”(相手の幸福を望む心)を育てる言葉:「幸せでありますように」
“悲”(苦しみを除いてあげたい心)〃:「悩み苦しみがなくなりますように」
“喜”(相手の幸福を共に喜ぶ心) 〃:「願いごとが叶えられますように」
“捨”(とらわれない心・平等な心)〃:「悟りの光が現れますように」
となります。この四つの言葉を古株さんに対して唱え(念じ)続けると、古株さんに対する四無量心が育つし、『生きとし生けるものが幸せでありますように、生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように、……』という具合に唱え続けると、すべての生命に対する四無量心が育っていくんですね。
じつは、この四無量心を育てるやり方は“慈悲の瞑想”といい、上座部(テーラワーダ)仏教において“お釈迦さま直伝の瞑想法”として伝わっているんですよ。ユキコさんがこの瞑想についてもっと詳しく知りたければ、“日本テーラワーダ仏教協会”のホームページにアクセスしてみてください。
まあいずれにしても、古株さんに対する四無量心が育てば育つほど、古株さんに対する怒りの心が減ってきて、七つの実践も心からできるようになります。その結果、古株さんとの人間関係は劇的に良くなるというわけです。」
「なるほどねー。でも、なんで四つの言葉を唱えたり念じたりするだけで、四無量心みたいなスゴい心が育つんですか?」
「それは“随念効果”という心の法則があるからです。これは『心は言葉の指し示す方向に向かって育つ』という法則なんです。簡単に言うと、いつも乱暴な言葉を吐いている人は性格もどんどん乱暴でガサツになっていき、いつも優しく思いやりのある言葉を心掛けている人は心もどんどん優しくなっていくというわけです。
ですから、『幸せでありますように』という言葉を常に唱えたり念じたりすれば『あの人もこの人も幸せであってほしいな』という“慈しみの心”が育つし、『ありがとう』という言葉を習慣にすれば“感謝の心”が育ってきて、ちょっとした良いことがあると「ありがたいなぁ!」と幸福感を味わえるようになるんですね。」
「なるほどねー!言葉ってすごく大事なんだぁ。ちなみにキタオさん、慈悲の瞑想をやるときのコツみたいなものってあります?」
「ありますよ。できるだけ感情を込めて、回数を多く唱える(念じる)ことです。“感情×回数=効果”という公式を覚えていてください。いつでもどこでも何をしながらでも、念じれば念じただけ心が育っていきます。その際、相手の笑顔などを思い浮かべながら念じるとさらに感情がこもって効果的ですよ。だから、逆に乗り物を運転しているときはやらないでください。とても危険なので。」
「わかりました!“感情×回数=効果”か。時間や場所を問わず言葉を唱えるだけで良いなんて、忙しい勤労主婦の私にピッタリの瞑想ですね。さっそく帰り道にやってみまーす。キタオさん、ありがとうございましたー!」
と、自転車を勢いよくこぎだすユキコ。
「あ、だから運転中はだめですってー!!……行っちゃった」
(続く)