父母の結婚式の写真が残っている。海軍の提督が、仲人に成っている。白い海軍正装姿の父と着物姿の母だ。戦時下のこと故、これから進む目の前に待ち受けるであろう困難に対する決心と希望が二人の表情に見て取れる。
結婚生活が始まってしばらくの話だろう。家の近所で、火事があり、我が家も巻き込まれた。父は酒に酔い、寝込んでいた。目覚めて、あわてた父が、二階から飛び降り、腰を強打して動けなくなった。この時、傍らで気丈に活躍したのが母だった。後年の主要場面の幾つかで、見受けられる両親の役柄が、ここで既に現れている。後年母が語った処では、「いざと成ったら、お父さんは、役に立たないんだから。あたしの方が腹が据わって、結局、全部することに成るんだから。」とこの時の話を引き合いに出した。
東京ではすでに空襲が始まっていた。母の実家もやられた。父が、土浦の予科練の教官時代は既に、母方の父母が同居していた。食糧はじめ、ものがどんどん少なくなる中、せめてもと、庭で、母が野菜作りを始めた。母は、この野菜含め少ない材料で、父の為に、毎日中身の変わったお弁当を、工夫して作った。これを見て祖父は、「このお弁当を、毎日食べられる父は、幸せだね。」と云っていたそうだ。かいがいしく奮闘している母の姿が彷彿とする。この地で、兄は生まれる。
この頃の父は、何か不祥事が有ると、階段の下まで、殴り飛ばす様な教官だった。自分では、「気合が入った上官だった。なまくらは許さなかった。」と後々、酒が入ると語っていた。
終戦の年には、鹿児島県鹿屋に赴任している。海軍の特攻隊の基地だ。ここで、気象観測班の仕事をしている。この時の仲間は、後々、気象庁に勤め、テレビの天気予報等に登場した。その都度、父が、「こいつよりおれの方が、判断が当たる。」と云っていた。特攻では、死なない立場とはいえ、母には、何かと心配な日々だったろう。
戦後は、家族が先ず神戸で落ち着く。母の祖父母も一緒だ。父は、紡績会社に勤め始める。兄は、進駐軍が長田の訓練場で、行列して行進するのを金網の外から見て、「あちゃぽ。あちゃぽ。」と云って、真似するまでになっていた様だ。母は、食べ物を、三宮のガード下の闇市で確保するのに大苦戦したようだ。
東京言葉の世間知らずの人間とみられて、いろいろなめられた事を言われた。なかなか売って貰えず、「あんたの体と引替なら、タダでやるよ。」というようなことを、うそぶかれた様だ。
父が、二年間で、突然会社勤めを辞め、自分で商売を始めた。洋服生地を仕入れ、販売をして回る仕事だ。仕事は大阪でスタートする。私は、この天満宮の近くで生まれた。父は、仕事で悪戦苦闘する。前の勤め先の時は、そこの人として、取引先が上手い事を言ったかもしれない。しかし、独り立ちすれば、足下を見て値切られたり、代金支払いを延ばされたりした。仕入れから、販売、代金回収まで、全て、上手く回せるようになるまで、何年もかかった。
その間、母は、同居する両親を含め、六人家族の食物の確保に、明け暮れる。食糧事情は、戦後二、三年した頃が最悪だった。少しでも空き地が有ると、穿り返して、作物を何か作ろうとした。それを見て、隣の土建屋の小父さんが、「そんな土じゃ何もできないよ。」と笑って見ていた。しかし、気の良い人達だった。仕事の帰りに、何処かの現場の土を車で持ち帰り、「ほらよ。」と置いて行ってくれた。それで一生懸命、作物を育てたようだ。
赤い表紙で、青い紙の背表紙の手作りノートが残っている。ものが無い中、わら半紙の様な、質の悪い紙を切りそろえてある。ペン書きだ。紙が悪いので、書いている途中で、引っ掛かってインクのにじみが、そこ彼処に有る。でも丁寧な、懐かしい字で書いてある。
大変な状況の中、母は、子供二人を、愛情を込めて育てた。その様子が、育児手帳の様に書いてある。兄の分より、少しは育児に余裕が出たのか、私の時の方が沢山書いてある。母も、兄もあの世に行った後、父より、母の遺品として、私に手渡された。少し様子がおかしいと云っては、何日も心配している様子が、良く分かる。「ぼうや。」「ぼうや。」と繰り返し書かれている。
私が二歳の頃まで、大阪に住んだ。祖父が、私を背負って、大阪城まで散歩するのが日課に成っていた。犬のマーキングの様に、大阪城の石垣に、おしっこをしていた様だ。祖父は、趣味で長年集めた蔵書を、戦災で失った。張りも無く、寂しい日々で、この散歩を、唯一楽しみにしてくれていた。そんなある日、何時もの様に、私を背負い散歩から帰った。「疲れた。肩が凝る。」と言って、早く就寝した。その晩、静かに息を引き取っていた。
次は、下関の父の養母のもとで、悪戦苦闘する母です。