エッセー

ヤッシーのきまま見聞録⑨

私の名前はヤッシー。会社人生は終わった人ですが、第二の人生はこれから。会社の重しが取れた身軽さで見たこと、聞いたことなどをきまま(気まま、生まま)にお伝えします。きままなので、悪しからず不定期です。

「コジロー君との思い出3−お別れ編」

大阪から戻ったコジロー君は大阪暮らしのことなどはすぐに忘れ、1年振りの千葉での生活を楽しんでいるかのようでした。すでに目の上のたんこぶのような存在だった先輩格のチャッピーはいません。大好きな散歩も独占状態。平日の朝は私が、夕方は家内が連れて行き、休日は私が朝夕とも担当しました。

散歩で気をつけなければならないひとつはコジロー君が道端に落ちている食べられそうなものを拾い食いすることです。日ごろから餌は十分に与えていたのですが、なぜか落ちているものを拾って食べようとします。この辺りが捨てられていた犬の性癖か、雑種の逞しさか、油断できません。特に危ないのはフライドチキンの骨です。目ざとく見つけてくわえます。取り上げようとするとうなり声をあげて威嚇して離しません。鶏の骨を噛み砕くと先が尖って割れるので、これを飲み込むと内臓を傷つける危険性があります。コジロー君が見つけるより早く発見してそこを避けて通りたいのですが、鼻の利く犬にはかないません。先を越されて何度も苦労しました。

雑種の逞しさ、野生を感じさせたのは餌の鶏の砂肝の食べ残しを、庭のそこかしこに穴を掘って埋める行動です。埋めた場所をよく覚えているようで、うっかりそこに近づこうものならウッーと低いうなり声をあげて威嚇されました。

番犬としては立派に役目を果たしてくれました。何か不審を感じると大きな声で鳴きわめきます。玄関先とは反対側の庭に繋いでいたので来訪者や通行人を吠えることはありませんでしたが「この家にはうるさい番犬がいる」ということは知れ渡っていました。

実はまだコジロー君を飼う前、引っ越して来て間もない頃に、うっかり1階の部屋の窓の戸締まりをし忘れて空き巣に入られた苦い経験があります。室外犬のコジロー君を飼った理由のひとつもこの苦い経験があったからです。空き巣に入られた時にはチャッピーをすでに飼っていましたが、チャッピーはわれわれと一緒に2階の部屋で寝ていました。後から思い出すと何かチャッピーがその時にブルブルと震えていたようでした。空き巣が入った1階の異常さを感じたものの小型犬にはどうしようもなかったのでしょう。

不審者がうろついているような情報があった時にはコジロー君を庭から玄関先に回して繋いで番犬の役割をしてもらいました。吠えまくるコジロー君を目の当たりにしては不審者も避けて通らざるを得なかったと思います。

狂犬病などの予防接種は市からお知らせが来るので毎回受けていましたが、公園に巡回して来る接種は他の犬と喧嘩になるなど危険なため受けるのはやめ、歩いて20分ぐらいのところにある動物病院に連れて行きました。コジロー君はてっきりいつものコースとは違うお散歩かと思って張り切って歩を進めていますが、やがて病院が近づいてくるとやっと気がついてストップがかかります。今来た道を慌てて引き返そうとするのを強引に引っ張って病院の中に入れます。嫌がるコジロー君を体重計にもなっている台の上に乗せ、私が首根っこを抑えて暴れないようにしているうちに先生が素早く注射をお尻に打ちます。この時の先生の格好がおかしくて、コジロー君を恐れているようでなるべく遠くからへっぴり腰で手を伸ばして注射を打ちます。後からその格好を思い出すとおかしくなりました。コジロー君は注射が終わると「こんなところに長居はできない」とばかりに一目散で逃げるように帰るのが滑稽でした。

東日本大震災が起きた2011年の後半ぐらいから、元気いっぱいだったコジロー君にも衰えが見え始めます。すでにその頃には14〜15歳になっていたので柴犬としての寿命が近づいて来ているようでした。散歩にもあまり行きたがらないようになり、餌の食いも悪くなってきました。

ちょうど同じ頃、年末年始を一緒に過ごすために新潟から来ていた父親が体調を崩してわが家で療養生活を送っていました。図らずも父親とコジロー君とが同じような時期に病弱となり同居する展開となってしまいました。

2012年になるとコジロー君の病状は悪化しお腹に水が溜まるようになりました。もう自力で歩くことがままならないため抱いて病院に連れて行って見てもらいました。心臓がだいぶ弱っているということで「そう長くは生きられない」と言われました。

3月30日夜、私は仕事で大阪に出張していましたが、急いで家に戻ってコジロー君の様子を庭に見に行くと、もう息絶え絶えの感じでうずくまっています。慌てて玄関の中に入れて様子を見ました。お土産に買って来たあんこのお菓子を指につけて口元に持っていくと、目を開けてペロペロと舐めました。これがコジロー君の最後の食事となってしまいました。翌31日の朝にコジロー君は息を引き取りました。療養していた父親も心配して起きてきて「コジローや、コジローや」と悲しんで声をかけてくれました。

ペットの簡単な葬儀・火葬を出張でやってくれる業者の方にお願いして、玄関先でお経もあげてもらいコジロー君を弔いました。やがて骨になったコジロー君が小さな骨壷の中に収まって戻ってきました。

それから3週間もしないうちに今度は父親がコジロー君の後を追うように息を引き取りました。動物と人とでは同じように語ることはできないのでしょうが、愛する存在を続けて亡くしてしまったのは本当にショックでした。納骨までの間、二つの骨壷を入れた遺骨箱が部屋を挟んで向かい合う奇妙な光景となりました。

四十九日の後、コジロー君の遺骨を飛び回っていた庭の片隅に埋葬してあげました。そこはひょっとすると大好きな鶏の砂肝を埋めていた場所だったかもしれません。

こうして約15年に及んだコジロー君との楽しく笑い、ハラハラ、ドキドキした刺激に満ちた生活が終わりました。やはりしばらくはペットロスで気分が落ち込みました。犬や動物を飼うのは楽しく癒されていいのですが、可愛がれば可愛がるほど失った時のショックは大きくなります。コジロー君を失ってからは「もう動物を飼うのは卒業だな」とつくづくと思いました。

今でもコジロー君との楽しかった日々が時々思い出されます。街中でコジロー君に似た犬を見かけると、思わずコジロー君ではないかと見入ってしまうことが何度もあります。「愛犬家多し」と言えども、中型犬を新幹線に乗せて大阪まで運んだ人は少ないでしょう。大阪でブタの散歩と遭遇した話などは笑談としてそこかしこでご披露しています。拙著第二弾でもコジロー君との楽しかった思い出を笑談としていくつかご紹介しています。

私が会社人生で一番厳しかった時期を何とか乗り越えられた原動力のひとつは、コジロー君との交流の中で培った前向きさ、楽しさ、笑いであったことは間違いありません。そういうことから言うとコジロー君は私にとっては恩人ならぬ“恩犬”だったわけです。この穏健でない恩犬はきっと今でも天国かどこかで私の方を見ながら活発に、前向きに、明るく、楽しく走り回っていることでしょう。私もまだまだコジロー君の前向きさ、明るさに負けてはいられません。


追伸:ヤッシーが本の第2弾を出しました。「働く方・働く場改革 人と職場を活性化する笑談力・考動力 〜笑いをうむ19(いっきゅう)のワザ〜」(ビジネス教育出版社)。ご購読いただければ「笑いのコミュニケーション」と「考えて動く力」を磨くための一助となるはずです。

ヤッシー

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