初めて投稿させていただきます。大田区在住の【ワッペン】と申します。仕事はすでにリタイアして、この春から、大学院(修士課程)で仏教を学ぶことになっています。徒然に感じたことを、思うままに書かせていただきたいと思います。以下はその第一稿です。
昨日は、昼頃から暖かくなってきたので、妻と二人で隅田川下流の月島近辺に桜を観に行きました。このところ毎年満開の頃に半日ほどかけて東京の桜を観て歩いているのですが、そんなことが出来るのは、心身ともに元気なことの証左であると、ある方からご指摘をいただきました。だから感謝しなければいけないと。
考えてみれば全くその通りで、心が何かほかのことに強く捉われている人にとっては、桜のことなど、まさに「眼中にない」でしょう。しかも人は、通常いつも何かに捉われている、というのが現実です。その意味で、最近の私は、心が自由に開かれているというわけなのかと、嬉しく思います。
しかし私にも、かつては大きな苦しみを背負った時期がありました。当時働いていた金融機関で、自分にとっては「過酷な」環境に置かれ、新たに与えられた仕事がうまくいかずに、またそういう時にはありがちな、人間関係にも悩まされました。で、八方塞がりとなり、「いっそ死んでしまったらどんなに楽になれるだろう」と、真剣に考えたことがあったのです。
そんな時、グループでのお花見に誘われました。気が進まず、内心しぶしぶついて行ったのですが、現地に着いてソメイヨシノが今を盛りと咲き競っていたのを見ても、それが何と墨絵のように、白黒にしか見えませんでした。しかし、みんなで談笑しているうちに、徐々に花の色がピンクを増していきました。そして最後にハッと気がつきました。ああ、桜はこうして毎年美しく咲いていたのだと。
それからいろいろあって、何とか立ち直りましたが、苦しいことがあると、私は今でもあの時の桜を想い出します。
(Facebook 「ホッと家の縁がわ」の投稿から転載)