今はロングバケーション。
そう思いながら毎日をやり過ごしていた、私の20代最後の1年間。ハケン社員として責任のない補助作業をしながらそこそこにお金をもらって遊ぶ時間も適当にある、これで幸せと思っていたけど…。
キッパリと秀樹を卒業した後、市村正親さんの事務所(当時は個人事務所)に誘われた。私は市村さんへの尊敬もあり、ご本人からもかわいがってもらっていたし、社長兼マネージャーOさんの敏腕なマネジメント力も魅力的だったので、彼らの下でなら喜んで!という気持ち満々の一方で、一抹の不安もあった。
Oさんは銀座のママから劇団四季の広報という異色の経歴だけあって個性はインパクト充分。ただその敏腕の裏側には、ワンマンで剛腕な錬金術師のような顔もあった。それでも私はOさんからマネジメントを学べるのなら、と事務所に入った。
「市村を舞台だけで食べられる役者にする」というブランディングと、市村さんの魅力を引き出す地味でも質の良い舞台作品を海外から輸入し、一人54役の独り芝居『クリスマスキャロル』を実現させた目利きと手腕はさすがだった。しかし悪い予感も的中した。
単なるお使いとして松竹に出向いた私に、既に顔見知りになっていた舞台制作の担当者がマネージャーとしての判断をあおいできた。私は想定外のことに戸惑いつつ「私では判断しかねるのでOに確認します」と持ち帰りOさんにそのまま報告すると、彼女の顔がたちまち怒りの色に変わった。えっ? 私は忠実に取引先からの確認事項を伝達しただけなのに…。「あなた、答えなかったわよね?」と念押しされた。もちろん私は何も判断は下していない。
この一件から手の平を返したように何も仕事を振られなくなった。私には思い当たる節はなかったけれど、そういえば、その少し前、市村さんから「Oには苦手なこともあるから、柏木、お前にも頼むな」とOさんの目の前で激励されたことがあり、そのとき彼女の顔が凍りついていたことを思い出した。
今思えばOさんは、周囲が私をマネージャーとしてみなし始めたことへの焦りと嫉妬だったのかもしれない。私がOさんを脅かすような存在には到底なれっこないのに。市村さんは驚いて残念がったものの、Oさんの剛腕を前にすべはなく、私は辞めることになった。(後に市村さんは移籍した)
志半ばだった私は、その後、知人の紹介でモデル事務所や芸能事務所で、新鋭のモデル出身のタレントとして人気急上昇していたYHや役者デビューしたIHなどのマネージャーを担当した。しかし。
あんなに希望したマネージャーなのに何か違う…。全然シックリ来なかった。
「やらされている感」が強い。気持ちも交渉も積極的になれず、ただただ下僕のように振り回されている感。それは私の中で本人に魅力を感じていないから。とても失礼な物言いだけど、秀樹や市村さんなど出来上がったトップクラスに尊敬の念で接してきたせいか、20歳にも満たない”ただキレイだけ”の子の魅力が私には正直なところわからなかった。それでも売れっ子を担当できたのは、ラッキーかもしれないけれど。
モデルの営業もやらされた。モデル数十人分のプロフィールのファイルを持って「死体の役でもいいから取ってこい」と命じられる。まるで部品のカタログ販売。モデルにも個性はあるけど、一人ひとりの魅力を考え引き出すなんて必要とされない。数打ってどれかに誰かがハマればいいという感じで、テレビ局のプロデューサーやディレクターの席に強引に行って相手にされなくてもファイルをデスクに置いてくる。
そんな愛情のないカタログ販売的営業は私にはできなかった。おそらくテクニックとしてそういう営業が得意な人もいるだろう。でも私にはそんな器用さがない。私の思うマネジメントは、本人ならではの魅力や価値を理解してそれを引き出して活かす戦略を練ることで、そのためには少なくとも私自身がまずは本人の魅力を見出す心が伴わないと難しい。秀樹や市村さんに感じていた心が、ここでは一切なかった。事務所の方針としても、質より量、丁寧に人を育てクリエイトしていく感覚はなく、私の考えも通らなかった。
その状態で朝から晩まで帰宅は24時を回る過酷な毎日。心がすり減りイライラが募り、このままでは自分が壊れそうだった。これまでの私は、いきなり秀樹や市村さんという人に出会ってしまって贅沢な思いをしただけで、これが芸能界のマネージャーの現実なのかもしれない。自分の時間や命を削ってまでやる仕事とは思えない。私はこの世界に肌が合わないのかも。もう芸能界から足を洗おう!
反動から吹っ切れは早く、翌月には大手広告代理店のハケン社員になっていた。補助的な雑用を淡々とやり、毎日定時17時半には終わる。まだ陽のある時間に帰れる幸せをかみしめていた。でも、そんな”幸せ”も半年くらい過ぎると物足りなくなってきた。
私は何かやり残したことがある。そんな思いに駆られるようになってきた。
正社員の広告系の仕事を手伝いながら、私ならこうするのになぁ、もっと方法があるでしょう、とか思うようになり、でも自ら意見する分際ではない。自分が活かされていないというか、自分を生きていないような気がしてきた。物理的には気楽だけど心は満足しきれていない。ずっとこのままでいいとも思えない、少し焦る気持ちも生まれてきた。
かみ合っていない自分に、今は一時的な一休み、「ロングバケーション」と言い聞かせていた。流行ったあのドラマもそんな意味合いだったし。
人よりかなり遅れたモラトリアム期。何がしたいのか向いているのかよくわからない、あの過酷さはもう二度とイヤ…。なのにやり残したことがある気がするのは何だろう?
業務中ボンヤリ机にいる時間があってPCも与えられていたことを幸いに、自分が「できること」「やりたいこと」「向くもの」「合う環境」の交差ポイントを考えるようになり、興味のあること、というより自然に気になることや思うことを心のままに書き出してみた。やがてわずかに方向性が見えた気がした。
ハケンをやめてもう一度勝負してみよう。
真の意味でやっと仕事人生のスタートラインに立った。結果的にハケンは緊急避難場所として私の心身をフラットにし、自分と向き合う時間をくれた。
あのとき、秀樹で大海に飛び込んだつもりだったけど、まだまだ井の中の蛙だった。