父は、また不死鳥の様に、復活した。頻度は落ちたが、要請が有れば、海外を含めて、国内も各地によく出かけた。野球界で、後進の役に立っていることが生きがいに成っている。ライオン丸のあだ名も、貰っているが、白髪のたてがみだ。吠える声もしわがれてきている。酒と葉巻は健在だった。
家族が集まると、近所のすしの人気店に出向いた。父の顔で、何時でも奥のテーブルに、入れてくれた。ここで、酔うに従い、「まだ、ばーちゃんの迎えが来ない。俺を許してくれてない。」と大声で云うのが、定番になった。一晩で、何回かいう。何時ものことなので、家族も、店の人も、他のお客さんも、その度に、笑っている。明るい酒だ。飲みながら、ラテン・ミュージックの定番をハミングすることもある。
母が、未だ、駒沢の病院に入院していたころだった。父が、珍しくばつの悪そうな顔して、私と入れ替わりで、病室から出て行った。母に聞くと、今や大変な優等生だけど、今日はバツ印をもらったんだと云う。機会が有ったら、その内本人が話すのではと、それ以上何も云わなかった。父も何も言わなかった。
後年、父も舞台から去った後、話は、何処からともなく、伝わってきた。場面は、母の葬儀後だ。父に地球の裏側より、結婚してくれと云う人が現れた。若い男の子もいるという。この人にどう理由を付けたものか、スペイン語で、結婚できない旨の手紙を書いたらしい。但し、探さないでくれ。十分な養育費と別れのお金は、父が、人づてに託した。こんな話だった。これが、あの時のバツ印かと思った。だが、真偽の程は、霧に包まれて、分からない。
父は、何事も、やるとなると情熱的に取り組んだ。仕事は、外見に似ず、木目細かに気を配る。メモ帳も、びっしり細かい字が書かれている。取り組んだ分野の勉強も、集中してやる。打つ手は、細心だが、大胆だ。後は、流れに任せる。
女性にも、まめに気配りをする人だ。年齢を問わず、人気があった。故に、間違いもあったろう。
父は、その後も元気に、活躍して回った。海外の人々も含めて、長年培ったネットワークが、土台になっていた。人のための世話も、電話で話を付けたり、自ら出向いたり、喜んでしていた。体の手入れは、八十歳を超えてからは、休みの日に針や灸をすることが、定例に成っていた。葉巻と酒はマイペースだ。
人は、死に際で分かるというが、文字通り、ぴんぴんころりの幸せな終幕だった。母の迎えが来たのだろう。一人で旅立った。一陣の風と共に、舞台より去った。
命の流れを感じながら、父の生きざまを辿ってみた。父を「因」とすると、母を「縁」として、私と云う「結果」が、この世に生じた。このトライアングルが、父にもあり、母にもある。それぞれの祖父母も辿ると、私に繋がる命の流れと、何か、メッセージの様なものが、伝わってくる気がする。そのテーマらしきものが、山の連なる尾根道の向こうに、見えて来るように感ずる。そして、それは、更に、私の子供に、伝わっていく、流れだろう。
次に、家族の諸行「母の場合」、そして更に、「私の場合」を辿ってみます。
以上