若きヒーロー、ガルシアの運命が急転する。
ニューメキシコシティの総会で決定した体制で、野球のオリンピック種目入りを目指した。会長のキューバを除き、ドンキホーテ集団を中心に大変な努力が続いていた。野球に馴染みがない国に用具を持って、普及しに回った。アジアでは、先ず中国、インド、パキスタン、モンゴル、更には、ソ連。用具は寄付。経費は総て手弁当だった。50カ国以上、3大陸以上に普及する必要があった。
IOCの総会が開かれるときは、スイスに集まり、IOCの委員達に宣伝して回る。キューバの会長は、IOC委員だが、スペイン語しか話せず、仲間内の国々としか会話はできない。ガルシアを筆頭として、英語、仏語、スペイン語を操れる人達の活躍の場だ。欧州勢が頑張った。
1979年、ガルシアの母国ニカラグアでサンデイニスタと云う革命勢力により、親米政権が倒された。社会主義革命だ。この主力は、キューバで訓練を受けた勢力だった。皆心配した。ガルシア本人は、自分は経済人だ。政治とは関わりない。大丈夫だと言っていた。翌80年5月ガルシアに革命政府の手が伸びた。米国へ出国する搭乗間際に、家族の目の前で連れ去られた。
数年後、ボロボロの身体に成って、国外追放された。米国に難民として、第三国経由で送られた。米国の最先端医療のお陰で、命を長らえた。本人の後日談では、捉えられて直ぐに、狭い独房で、激しい暴行を受けた。米国のCIAとの関与を自白しろと迫られた。何日も、垂れ流しだ。糞尿まみれになりながら、暴行され続けた。
ガルシアの奥さんアイーダは、必死に海外の野球関係者に、夫の危難を伝えた。父にも電話がかかった。日米で即座に対策を練り、野球界がワシントンにも動いてもらい、ニカラグアの革命政府に働きかけた。ガルシアの世界野球界での活躍と、身の潔白を、考えられうる総てのチャネルを通じて、訴えた。
何か月後、やっと待遇が改善された。弁護士が付き、月に一度の家族との面談がごく僅かの時間、許されるようになる。形式的な裁判で、8年の刑だ。ガルシアの体は、散々に痛めつけられた為、老人の様になり、腎臓病でも苦しんだ。
その間に、表の世界は動いてゆく。1984年ロスアンジェルス五輪で、野球を公開競技で実施することで、流れが決まる。その前段として、野球の世界選手権を、80年8月日本で開催する。また、その前に、世界野球連盟の役員改選の総会が開かれる。ここで予想された波乱が起こる。
事前に、立候補者として、3人が出た。キューバ代表の会長が一期のみの制約に関わらず、立候補した。次は、不在のままで、第一副会長のガルシア。そして、不人気のイタリア第二副会長だ。ガルシアの奥さんアイーダが、特別に来日し、総会に出席した。ニカラグアに帰れないことを覚悟の上だった。しかし、効果は絶大だった。立候補者を除く満場一致で、ガルシア会長に決定した。
矢張りキューバ代表が、「本人が収監されたままで、受諾演説も出来ない様では、IOCにも認められない」と騒ぎ出した。しかし、米国代表が第一副会長、父が第二副会長につき、ガルシア不在の間は、会長の代行をすること。キューバ代表は終身名誉会長に成ることで、納得させられた。
奥さんアイーダは、国に戻れず、米国のサンノゼに移住。そこには、同国人の小さなコミュニティもあった。必要な費用は、関係者より、仕送りがなされた。だが、失ったものも大きかった。月に一度だけでも、夫に会う機会も失われた。それから度々、父が不在でも、我が家に電話をかけてきた。母は、スペイン語は全く分からない。僅かの英語だけだ。しかし、片言の相槌とニュアンスだけで、心が通じる。母ももらい泣きした。月に何度も、一時間に亘り、会ったこともない母の所に電話があった。苦しかったのだろう。
このころ、母の祖母が、我が家で静かに息を引き取った。老衰だった。必要な我が家での役割だったのだろう。居心地の悪い処だったろうに、ここしか居場所が無いと思い続けていた様だ。我が家で、小さな葬儀が営まれた。母の姉も、医者の夫を亡くし、しばしば父を頼ってきた。開業医であっても、バラが趣味で総てをそれに注ぎ込み、何の貯えもない。先妻の子と自分の子も含め、遺産相続で揉めた。それがそのまんま我が家に持ち込まれた。
バラバラでそれぞれが、顔も見るのも嫌だと言ってやって来るのに、父母がそれぞれ対応していた。土地を分け、アパートを建て、生活が成り立つように、父が手助けをした。一銭の得にもならないことに、腹を立てずに、黙々と話を聞き、良かれと思う手助けをした。父は、そんな姿を見せてくれた。
次は、東京での世界選手権とロスオリンピック公開競技の話です。