ホッと家の縁がわで読書を楽しむ常連のキタオと、ストレスから逃れて一息つきに訪れるユキコが会話を交わしてから、数か月が経ったある日。いつものようにキタオが読書に耽っていると、ユキコが現れた。
「あ〜、いたいた。よかった〜! キタオさんに、お礼が言いたかったんですよ〜!」
元気オーラをあたりに放射しながら猛ダッシュで駆けてくるユキコ。キタオは、再び始まる弾丸トークを覚悟した。
「こんにちは。お礼とは?」
「ほら、この前ここで教えてくださったじゃないですか〜。“マーナ”っていうんでしたっけ!? 自分と、他人や理想像を比べる心。その心が苦を生むんだっていうお釈迦さまの教えの話。そのおかげで、私は私でいいんだ!って思えて、女友達に素直に行きたいお店を伝えて、ランチしてきました。ありがとうございました!」
「それはよかったですねぇ! ランチは楽しめましたか?」
「はい! 友達が私を見下している感じもまったくしなかったし。ほんとに私、“仕事している友達が専業主婦の私を見下している”っていう被害妄想を勝手に膨らませていただけだったんですね。
しかもその友達、職場の人間関係ですごく悩んでいて、相談までされちゃって。仕事をしたらしたで、大変なことがあるんだなぁって。そう考えると、『自分は今のままでもけっこう幸せなんだな』って思ったんです。あ、旦那の晩酌の発泡酒、その日はビールにしてあげました。」
「おー、それはご主人もツイてましたね!」
「旦那ったら、理由が分からないもんだから目をパチクリしてましたよ(笑)。で、それから三日後に予想外のことが起こって。お姑さんが『子どもたちも手が離れてきたから、あなた、そろそろ働いてもいいんじゃない?』なんて言ってきたんです。これまでさんざん仕事はするなって言ってたのに。もうビックリですよ!」
「“手放せば手に入る”ってやつですね。良かったじゃないですか。」
願い叶って晴れ晴れのはずが、ユキコの表情は急に曇り始めた。
「はい。これで私も社会復帰できるって思うと嬉しくて、近所のスーパーで棚卸のパートを始めたんですけど…。最近、そこでの人間関係に段々と嫌気がさしてきちゃって。ひとりの古株のパートさんがみんなを牛耳っていて、細かいことには口を出すわ、他人の会話にはチャチャを入れるわで、なんかもうひどいんですよ〜。
同世代のパートさんと、ちょっと子育ての話をしていたら、『最近のママは甘いわよね〜。そんなだからいまどきの子どもって大人をバカにするのよね』とか言ってきて。うるさいし感じ悪いし、もうパートに行くのが嫌になってきちゃって。
クリーニング店とか、もっとパートの人数が少ないところに変えようかなあと思ってるんですけど、キタオさんどう思います?」
「まあ、国民には等しく職業選択の自由が保障されていると思いますが(笑)、なにか迷っているんですか?」
「ええ、じつはいまの職場、時給がこのあたりで一番高いんですよー。だから採用の時も競争がけっこう激しくて。そこを面接頑張ってなんとか入れたのに、古株さんが原因でやめるのもなんか悔しい気が…」
「なるほどね。ではその古株さんが悩みのタネになっていると…」
「まあそうですね。古株さんの問題さえ解決すれば、今の職場はかなり満足度高いかも。家からだって近いし。」
「なるほどそうですか…。なんだか『古株さん、古株さん』ってだんだん苗字みたいになってきましたね(笑)。わかりました。では古株問題を何とかしましょう。
でもまあその前に、ユキコさんがいま抱えている“悩み”というものの本質について少し考えてみましょうか。私たちは、生きていくうえで“憂い”や“悲しみ”、“苦しみ”や“悩み”などの否定的な感情によく陥りますよね。そういう状況を仏教ではひとまとめにして“ドゥッカ(苦)”というんですよ。」
「ドゥッカ?」
「そうです。ちなみにユキコさんはいま、働き出して古株さんの件でプチ悩んでいるわけですが、こないだまでは『働きたいのに働けない』ということでプチ悩んでいたわけですよね。でも実は、私たち人間が“苦”を感じるとき、その理由は一つしかありません。」
「え? なんで? 悩みのタネっていろいろあるでしょう。子供が勉強しないとか、旦那が家でスマホゲームばっかりやってるとか、姑さんが子育てに関して小うるさく口を出すとか、それこそいくらでもあるじゃないですか。しかもキタオさんプチプチ言うけど、本人にとってはけっこうな悩みなんですよ!」
「(笑)それは失礼しました。おっしゃる通り、人生いろいろ、“悩みのタネ”も確かにいろいろありますよね。でもまあお釈迦さまの教えからすると、要は本人が『思い通りにならなくて嫌だなぁ』と感じている状態、これが“苦”の本質なんですよ。
言い換えれば、“心が求めていること”と“現実”にギャップ(食い違い)があるときだけ、人は苦を感じるんです。ですから、“同じ現実”に出会っても、苦を感じる人と感じない人が出てきます。」
ユキコが眉根をひそめるのを見て、キタオは具体例をあげることにした。
「たとえば、“旦那さんが家でスマホゲームばかりやる”、という同じような家庭が2軒あるとしましょう。
そのうちの一人、主婦のAさんは常々『私は朝から晩まで育児や家事で座る暇もないのに、旦那は仕事が終われば家で何もしなくてズルい。少しは私を手伝うべきだ!』と思っているとします。でも帰宅した旦那さんはスマホゲームばっかりしている。すると、Aさんはその状況に苦を感じるわけです。求めていることと現実にギャップがあるからですね。
一方、主婦のBさんは『うちの旦那は家でスマホゲームばっかりやってるけど、ちゃんと働いてお給料も持ってくるから、まあいいか』と思っているとします。この場合、Bさんが現実を受け入れているのでギャップは生じません。だからBさんは苦しくないわけです。」
「なるほどねー。えっ!? ということは、古株さんとの悩みを解決するには、私が古株さんの言動を受け入れるしかないということですか!! それはけっこうキツイなー!」
キタオの喩え話を、すぐに自分の状況にあてはめて理解する。ユキコはなかなかにカンのいいタイプだ。
「いえいえ、ユキコさんがとれる選択肢は三つほどありますから安心してください。」
「そうですか? よかった〜! じゃあ詳しく教えてください。」
「一つ目の解決策は、古株さんを説得して、ユキコさんの気に入らない言動をやめさせること。」
「それはハードル高いですよ〜。言って聞くような人なら苦労しないですもん。しかも一番新米の私からは言いにくいし。」
「まあそうでしょうねぇ。なにしろ、『他人を自分の思い通りに変えようとすることは、世界を動かそうとするくらいに難しい』とお釈迦さまもおっしゃっていますから。しかも、人の性格というものは歳をとればとるほど変わりにくい。それはそうですよね、長年その性格で人生をわたってこれているわけですから。」
「うーん、なるほど。60年以上もあの性格で生きてきたわけですもんねー…。ハイ、つぎの案お願いしま〜す!」
「第二案は、ユキコさんが今の職場をやめること。古株さんと会うことがなければ、古株さんで悩むこともないわけですね。当然ですが。」
「だから、そこがね〜…。この辺ではかなり時給がいいから、採用の時は高倍率の競争で、そこを面接頑張って採用に至ったわけで…。」
「そうでした、そうでした。えー、ということで第二案も却下と…。ではお待ちかねの第三案。」
「私が古株さんの言動を受け入れるんでしょ? そうしたら私の願いと現実のギャップがなくなりますもんね?」
答えの先を読んだユキコは口をとがらせるが、キタオはニコニコと意に介さない。
「ご明察! 今のユキコさんにとっては、これが最も現実的な対応策だと思いますよ。」
「やっぱりそれしかないか〜。でもイヤな人を受け入れるって、かなり大変だと思いますケド。」
「もちろん、いきなり受け入れるといっても無理です。でもそこは仏教、キチンと手順を踏んで実践すれば、無理なく、しかもかなりの高確率で古株さんと仲良くなれますよ。」
「ホントですか〜?」
「請け負います。」
曇っていたユキコの顔に、明るさが戻ってきた。
「じゃあ、やってみます! 何をすればいいんですか?」
「まずはですね…。」
(続く)