●涙の教訓「変化球も使え」
社会人人生、不覚にも仕事の場で泣いてしまったことが1回だけある。しかも秀樹の前…。
私の心の奥で増していた失望感とは裏腹に、仕事は秀樹もマネージャーも評価してくれていた。それが救いでもあり、仇にもなっていく。
全盛期は各地にあったFC地方支部は会員数減少に伴いほとんど本部に吸収され、私が着任した当時、支部は3か所残っていた。その支部長たち3人は古参のボランティア。年季の入った”お局さまたち”はとても手ごわい存在だった。
FCは会報やイベントなどのサービスを刷新する一方で、運営資金を有効活用するために、時代や規模にそぐわない非効率な方法やインフラを見直す必要があった。事務所も、役割のなくなった支部の存在意義とその経費を前々から疑問視していた。
しかし3人の支部長は典型的な「抵抗勢力」だった。それも年下の新参者による手入れはもっと気に入らないのだろう。FC会員にとってより良く公平なサービスのため、と何度説明しても話が通じず、感情的な反発をくらい、私は手を焼いていた。
その厄介さには秀樹もマネージャーも頭を抱えていて、支部長たちに対して私を擁護してくれていたけれど、それがまた彼女たちにとっておもしろくない。悪循環で埒が開かなくなった。
困りごとはマネージャーに報告し、私は秀樹の耳にはあまり入れるつもりはなかった。が突然、秀樹が心配して現状を私に尋ねた。私は淡々と報告しているうちに不意に涙があふれてしまった。悔し涙なのか、なんかもうよくわからない正体不明の涙。泣くまいと思えば思うほど涙で声が詰まる。
その涙に秀樹は慌てた。コトの重大さを2倍増しで感じたのか、私の想像を超え、鶴ならぬ秀樹の一声で、翌日には秀樹とマネージャーと私の「支部長対策」の緊急会議が招集された。
このとき秀樹は私に、支部長への対応策の知恵をつけてくれた。「支部長会議は東京ではなく、場所はわざわざ柏木君から向こうに行ったほうがいい」「言い方はこんなふうに」「俺は味方だから」。私に期待してくれていることは痛いほど感じた。そして「直球だけじゃなくて変化球やカーブがストライクになることもあるんだよ」と言った。
変化球か…。アドバイスを胸に勇気100倍の気持ちで指示どおり地方に出向き、支部長会議に臨んだ。しかし、お局3人の圧力は強く、同席したマネージャーは秀樹と作戦した助言もせず(秀樹は不在)、会議は不発に終わり、私は一気に無力感に覆われた。
もしかしたらこの状況で一番の味方は秀樹なのかもしれない。でもいちいち秀樹を巻き込むことはできないし、現実としてこの支部長とマネージャーでは、私の力量では手に負えない。ずっと増幅していた陣営への失望感も手伝って、私は彼女たちと闘ってまで打破する気力が失せてしまった。
私がやることはもうこれ以上ない。辞めたい意思をマネージャーに告げると「君の気持ちはそんなものだったのか」と驚かれたけれど、湧き出てくるものはなかった。「そんなもの」になった原因はお局3人組だけではない。事務所の事務スタッフの女性が、「あなたはFCの仕事の器を超えている。マネージャーやったほうが良かったよね」と労ってくれたことが少し救いになったけど、事務所は女性をマネージャーにしない方針だった。そんな中で、FC会員から私の退職を惜しむお手紙を沢山頂いたことが報いになった。
そして辞める日。因果なことにミュージカル『ラヴ』の2年ぶりの再演の最終日だった。楽屋に挨拶に行くと、畳敷の部屋で秀樹がいきなり正座した。「今まで本当にありがとう。楽しかった」。そう言って秀樹は涙ぐんだ。あらためて私に向き直って「柏木君のやりたい方向は絶対に間違っていない、正しかった。でもこれからの人生では、直球ばっかりじゃなくて変化球も使えるようになるといいよ。君より人生の先輩だから言わせてもらったよ」。
正座して涙を浮かべていた秀樹。私には衝撃だった。こんな風にこんな温かいことを言われるとは思いもよらなかった。でもなぜか私に涙は出ず、未練も感じなかった。1ミリも未練が残らないくらい、それまでの葛藤が苦しかったのかもしれない。
大ファンだった”あの秀樹”が私に泣いて感謝する日が来るなんて。中学の頃から思えば、私にとっては充分すぎる大出世。私、よくやった!むしろ晴れ晴れと誇らしかった。
あの秀樹の涙で、私これから生きていける!!
「直球だけじゃない、変化球も使え」。私の性格に的を射た秀樹からの言葉。その後もずっと胸に残り、直球を投げて失敗するたびにいつも思い出す、痛くも大切な言葉になった。
●いくつもの星が流れ
今年、秀樹が亡くなった。
秀樹の仕事を辞めてからは、完全に秀樹から遠ざかっていた。どうせだったら、自分が成長して誇れる仕事の一つ二つやってから、見返すくらいの気持ちでいつか会いに行こう、と冗談みたいに思いながら20年以上が過ぎていた。
あの頃が鮮明によみがえってきた。無邪気なファンだった頃、恐れ知らずの学生時代、まさかの転身、秀樹の言葉と涙…。思い出すというより、当時の自分との“再会”。ドライに”決別”していたつもりの秀樹が、思いのほか私の体にしみ込んでいたことに気づいた。
秀樹の仕事はたった2年半ながら、若造に大きな仕事を任せてくれ、その経験が、その後の私の道を拓き、今につながっている。あの失望や憤りの中にこそ大切な学びがあり、それが糧となった。秀樹がいなければ今の私は絶対にいない。やっぱり秀樹は私の原点。
秀樹に「ありがとう」を言わなきゃ。そう思ってお通夜に行った。棺を前にして、悲しみよりも感謝しかなかった。
「相変わらず直球タイプですが、少しは変化球も投げられるようになって、あの頃よりは成長していると思います。もしかしたら当時の色々な問題も、今の私ならもう少しうまく解決できたかもしれません。秀樹さんのおかげでここまで歩めたことをお礼に行こうと思っていたのに、お会いできず悔んでいます。私の人生の公私にわたってのベースを作ってくれた秀樹さん、本当にありがとうございました」。
会場の外は中に入れず献花に来たファンで溢れかえっていた。私よりも熱心なファンがこんなにも大勢いる、その中で私は秀樹の仕事ができて、今日もこうして特別に会場内に入り棺に会えている、そんな恵まれた運にも感謝しようと強く思った。
そして追悼番組で秀樹の歌を久々に見聴きし、「こんな歌い手は今の日本で唯一無二」と改めて感じた。だから今ももどかしい。結局はしぶとく変わらない自分に呆れる(笑)。
フィーチャーされるのは、相変わらず『ヤングマン』『傷だらけのローラ』や球場コンサート…。一世を風靡したわかりやすい象徴だろうけど、あれだけの実力を持ちながら、20代のアイドル時代しか世の中の印象にないのだとしたら、やっぱり残念すぎる。かえすがえす惜しい。
ファンを超えて今なお私が確信する歌手・秀樹の持ち味は、キレのいいリズム感や伸びやかでパワフルな声量の中に、少し哀愁とせつなさが宿る絶妙なバランス。ステージ映えする雰囲気。その天性は30代以降に熟成され、元気な明るさ一辺倒ではなく、ちょっと哀しく、でも暗くなくて希望がある、そんな大人な歌がとても似合う歌手だったと思う。
その真骨頂とも言えるロッカバラード『いくつもの星が流れ』。ちょうど私が着任する前にCD発売されたが、あまり陽の目を見なかった。その悔しさが秀樹の仕事での原動力にもなっていた。
「♪その昔オレたちは同じような夢をみた 苦しかったことのほうが多かったけど息づいてた 思えばずいぶんと遠くまでやってきた(中略) そして今オレたちは流れるままに身を任せて 少しは投げやりで少しはすさんでもいる 明日は明日の風が吹くけど どうなっていくかはオレたち次第 いい事ばかりが続かないけど 行く先真っ暗と決まっちゃいない〜」(抜粋)
ちょっと大人になったからこその疲れやあきらめや後悔。それを受け止めながらも、悲観的ではなく、熱い叱咤激励でもなく、前を向く気持ちにさせてくれる。肩の力を抜いた大人の応援歌として、そしてアラフォー秀樹の魅力も相まって、当時から私の大好きな名曲。
私にとっても、いくつもの星が流れた。訃報を聞いて、この曲を久しぶりに聴いた途端、涙腺が決壊した。今の自分の心境と重なり、20代の頃より沁み入る。
きっと”アイドルヒデキ”を知る多くの人たちにも、いくつもの星が流れただろう。そんな世の中の人たちに、今さらながら、せめてこの曲を知ってもらえたら、私も本望。