●“裸の王様”と非力な私
「他の人の舞台とか見に行くな」。マネージャーから初めて注意を受けた。仕事をサボったわけでもない、機密を漏らしたわけでもない。理由は「秀樹の仕事をしているんだから」。
秀樹の仕事をしていたら、一切の他のコンサートや舞台は見に行ってはいけないのか、と問うと、マネージャーは口ごもった。どうやら偶然レストランで秀樹と市村さんが遭遇し、市村さんが私のことを誉めて秀樹に話したとかで、それで秀樹が機嫌を損ねたらしい。例の打ち上げのときの秀樹の顔が蘇った。
ああ厄介な独占欲。それをそのまま伝えてくるマネージャーにも疑問を感じ、この考えに従う気にはなれなかった。
それからまもなく、秀樹の戦略会議で愕然とする。「これからは演歌でいく」。え、え、演歌!?
歌番組も激減している中で「Jポップ」は多様化し、CDの売り上げは苦戦の一途。秀樹のマネジメントは攻め手を欠いていた。
そこで思いついたのが「ジャンル替え」だと言う。ポップス部門では当時はSMAPやミスチルなど強者ばかりでCD売り上げ枚数やリクエスト数で上位になれないが、演歌部門であれば少ない数でも1位になる可能性があり、「1位」になれば注目される、という理屈。アリスだった堀内孝雄さんが演歌系の歌でヒットし再ブレイクしたことに目を付けたらしい。
唖然。秀樹が歌ったらすごく素敵な歌があって、それがたまたま演歌だから演歌部門、というのならわかるけど、単に「その分野なら勝てそう」とかいう小手先で、とってつけたみたいなことやってうまくいくはずがない!そもそも秀樹自身が歌いたい、秀樹にしか歌えないと思えるくらいの、そんな「コレぞ」という歌を吟味もしてない。それって秀樹の才能をあきらめたってことにならない?
そんな歌出したって売れないよ、絶対!私は確信していた。でも「こんなこと、うまくいくんですか?」と疑うのが私の立場では精いっぱいの反論。演歌は強行発売され、違和感を抱えたまま、FC(ファンクラブ)としてはCD購買作戦やリクエスト作戦をせざるを得なかった。案の定、ヒットどころかFC会員にも不評だった。当たり前だよ。暗い演歌で、秀樹らしさもなければ、秀樹の新たな魅力もないんだから。
新曲を出せば、とてつもない数が動いた全盛期とは違い、もはやそんな組織戦でヒット曲が生まれる時代ではないのに、なまじ、FCの会員が増え、活気を取り戻したからファンに期待があったのかもしれない。でも完全に本末転倒。秀樹が輝くからファンがいるのであって、ファンが無理やり秀樹を光らせるのではない。私なりに疑問を呈してみたけど、のれんに腕押しだった。
加えて、コンサートの時の体調管理や歌や仕事に向き合う姿勢など、もっと努力や工夫の余地はあると、私にさえ見えていたのに、誰も苦言を呈さず、裸の王様を助長させているようだった。
私は秀樹に魅力を感じなくなった。歌にというより、その姿勢に。心のありようは歌にも表れる。歌は確かにこなれていた。でも前は無心なひたむきさがあって、多少粗かったり歌詞が飛んじゃっても、人の心を揺さぶる何かがあった。私が慣れたのではない。以前の歌い方を聴けばやっぱり響くものを感じていたから。
昔のような純粋さばかりがいいとは思わない。むしろ若い頃以上に、秀樹には脂が乗った成熟した大人の魅力が充分ある。でもその自分の体も才能も大切にせず、磨かずにいたら、それも錆びてしまう。
傍で見ていて、マネジメントにも疑問だった。もっと秀樹の歌い手としての本質的な才能を信じたらいいのに。時流に焦るのでなく、他の人にない強みを最大限に活かす道は、苦しく時間はかかってもあったはず。今が正念場なのに。「どうしてもっと世の中のみんなに、秀樹の良さが伝わらないの!?」と私がずっと地団駄踏んでいた状況に合点がいった。
秀樹の才能や魅力を、こんなにも活かせないのは歯がゆい。私としては、FCのファン頼みではなく、そうでもない人や”昔のヒデキ”に飽きた人を振り向かせて、今度コンサートに行ってみたいと思わせることが大事で、そのためには秀樹の歌手としての唯一無二の魅力を打ち出せるような作品づくりや長い目での戦略が必要だと思っていた。でも当時の私にはアイデアはあっても、それを講じる手も立場もなかった。
ビジネスはキレイ事ばかりではないけれど、その”商品”の一番の「本質的な価値と魅力」を粗末にしていては先はない。時代や状況によって手段は柔軟に変えても、本質的な価値を見失わず、それをどう活かすのか、がマネジメントの力だと思い知った。
本人の資質とそれを活かすも殺すもマネジメント。今も私がアーティストのみならず、様々なビジネスを見極めるときの指針になっている。