下関から、父のいる東京に合流できる日は、一年後になった。下関駅から、車中一泊2日の長旅だった。母は痩せてやつれていた。子供二人は元気一杯だった。到着した品川駅のホームには、これまた、細身の父が笑顔で待っていた。それから随分離れたところに、母方の長身の祖母が、遠慮がちに出迎えていた。
暫くは、家の中は、平穏な日々が続いた。父の仕事も、繊維関係は朝鮮戦争特需の背景のもと好況だった。その様な中で、米軍将校向けの、高級スーツの香港系中国人経営の店が、東京や横須賀で、繁盛し、そこに生地を納めていたり、他でも商売を広げていた。それでも広げては失敗の繰り返しは、続いていた。取り立てをかわすため、表札を外せと、夜帰宅するなり、母に命じていることもあった。
そんなある日、また家に重い空気が流れた。母の祖母が、身の回りの物を風呂敷に包んで、姉の家から引き揚げて来た。あの家では、どうしても、一緒に住むことは出来ない。この一点張りだった様だ。玄関脇の小さな部屋を、自分の居場所と決めて、じっと動かずに座り込んでいた。父の養母を、東京に呼んで同居するチャンスが遠ざかった。下関より帰ってから、兄と共に何度か母に促されて、東京で一緒に住んでくださいと云う手紙を出していた。一回目のリセットは失敗した。
二回目のリセットは、小さな間取りの部屋がない処に引っ越した。しかし、これも、同じことの繰り返しだった。
その様な中、父の商売が上向きな頃、女性の問題が発生したようだ。我が家の過去帳に水子が、登場し始める。商売が左前の頃には、父に言われて堕した母自身の水子も何人かいた。そんな背景のもと、中野の広い庭に茣蓙を広げ、多くの人が車座に成って、悩み事を解決してもらう場に出かける様になった。父の伯母が誘ったのだ。
母のいない間、私の世話は祖母が一手に引き受けた。幼稚園の遠足や、運動会に毎回付いて来た。母親でなく、祖母が付いてくる家は稀だった。年齢の割に背が高い。目立った。何時しか、男の子だが、何文安かのおばあちゃん子に成って行った。これも、父に取れば癪の種だった。母が他の同行の人達の家を訪ねて帰ってくるのが遅くなる。食べ物まで、祖母が世話をする。チーズを食べさせてくれたり、納豆に砂糖を入れた味を、私に教えてくれたりした。
父の事業がそれなりに少し安定した時期に、また、野球への縁が復活する機会が訪れた。大学野球の対抗リーグ戦の各校から若干メンバーが集められ、審判員と成るのに加わった。その頃、大学の練習場に、父に連れられて兄弟で、出かけた写真が残っている。練習が一段落してのことだろう。左右逆に大きなグローブをはめて、兄弟で監督と思わしき人に遊んでもらっている。
大学野球で、厳格な審判員として名を挙げたようだ。直ぐに、甲子園の審判員にもなる。やるとなると集中する。ルールブックも殆ど暗記するほど読み込んだようだ。やがて、高校野球界の天皇と云われた人の信用もかち得ていたようだ。審判団の技術面のリーダーの様な役割もしていた。また、社会人の野球界へも入っていく。審判から始まり、若くして役員までするようになった。
会社を経営しながら自分の時間をやりくりして、これらの仕事に携わった。勤め人の立場では到底できない仕事であった。やると決めたら、情熱的に取り組む。
若くして、社会人野球界の改革の仕事にも取り掛かる。顔の繋がりだけで、物事が決められがちの団体だった。そこに寄付行為と呼ばれる規約を整備し、野球好きの経済界の重鎮と云われる人を会長に迎える。後ろ盾を得ながら、改革を実行していった。四十代の後半から五十代半ばにかけてのことだ。
その間で、下関の祖母が身罷る。父は、超多忙の身だったが、死に際の最後のお別れは間に合った。母は只々お詫びするしかなかった。一緒に住むことは、遂に、実現しなかった。
父が、五十代に入ったところだった。代表チームを率いて、野球の母国アメリカでの世界大会に参加した。そこで、米国だけでない、中南米の沢山の野球強国と初めて出会った。衝撃を受けた。井の中の蛙だったことを思い知る。その時から、父は、突然、毎朝公共放送で、スペイン語の勉強を始めた。五十の手習いだ。英語を話すだけでは、この人たちと本当の意思疎通が出来ないと知ったからだ。
次回は、十年程話が跳びます。父と私、そして、父の友人若きラテンアメリカのヒーロー、ガルシアが、カナダの野球場で、会った場面からです。