万に一のまさか、神様の間違い?
神様の気がふれた。あの時は本当にそうだったと今でも思う。神様って数十年に一回くらい、人にそういうイタズラするんじゃないかしら。その気が変わらないうちに乗るかそるか、で人生は大きく変わるような。ちなみに私の口から度々登場する「神様」とは漠然とした目に見えない存在で、都合よく気まぐれに感じているもの。
父の縁で入行した銀行勤めが3年過ぎたとき。私は既に一年目からここには合わないと感じながら、当時は転職にまだ抵抗もあったし「石の上にも三年」とも思っていた。でもお手本にしたい女性の先輩は見当たらず、自分の居場所として未来を感じない。辞めた後のイメージなんてないけど、とにかく辞める、と決心だけはした。あとは有休休暇を消化して辞めるタイミングと理由だけ考えよう。
決意から1か月も経たないある日、秀樹の事務所から突然の電話。「今銀行でお仕事してるとは思うけど、秀樹の仕事する気ない?」
えっ? どういうこと???? 何これ現実????
「?」と「!」が100個くらい炸裂して、ぼう然。
私は中学生のときに西城秀樹のファンになった。世はシブがき隊や少年隊の時代、クラスは〇〇派で3つに分かれる中で、私は一人「時代遅れ」と笑われていた。大学生の頃にはテレビ出演もめっきり減っていたけれど、その頃の秀樹はアイドルというより、コンサートやアルバムでジャズやスタンダードなど洋楽のカバーも歌いこなす大人のシンガーとしてカッコよかった。私は「どうしてこの魅力が世間に伝わらないのか」と地団太を踏んでいた。
大学で放送部だった私は、「みんなが知らない秀樹を知らしめよう」と学園祭で秀樹の番組を作ることにした。そこで私は秀樹の事務所にアポを取って訪ね、企画を説明し、世間に出ていない写真や映像を借りることに成功した。もちろんタダ!相手をしてくれたマネージャーが優しかったのをいいことに、私は「このままでは秀樹さんは埋もれてもったいないと思います!もっと売り方を工夫してほしいです!」と生意気にもぶちまけた。なんという怖いもの知らず…。
この件をキッカケに、学生だった私はコンサートなど人手が足りないときにボランティアでお手伝いをするようになり、秀樹本人に会えるわけではなくても、「Back Stage Pass」を着けるだけで嬉しかった。でも社会人になってからはお手伝いが難しくなってしまい、たまに行くコンサートで、よしみで良席を融通してくれたりしたけれど、そんなとき、「いい席で見るより、私は裏方で仕事するほうがいいなぁ」とハッキリと自覚はしていた。かといって今の自分には遠すぎる現実…。
そんな私をまるで見透かしたかのような電話。タイミングといい、これはデキ過ぎでしょ。
デキ過ぎなあまり、手放しで舞い上がるというよりは、妙に冷静に慎重になってしまった。先方は「ファンクラブの運営を柏木君に任せたい」と言っている。当時のファンクラブの運営に問題点は感じていたし、私ならこうするのにというアイデアはあったから、全く歯が立たないわけでもない「身の丈ちょい上」的な感じはすごく魅力的。しかし相手は「芸能界」。実は大卒当初、レコード会社などエンタメ界に就職したかった私は親から猛反対された経緯もある。外から憧れる分にはいいけど、自分が本気で関わる世界としてアリなのかナシなのか…。
「もし失敗したら身の破滅かもしれない」と必要以上にビビっていた私に友人が言った。「何をもって失敗? だいたい25歳の女子に“任せたい”なんて言ってもらえることないよ。それだけでもやる価値あり。しかもこの仕事、ナッコ(私のこと)にしかできないことじゃん」。
確かに「柏木君に」と言ってくれる仕事なんて他にない。それに、私よりも長年の秀樹ファンは何万人もいる、その何万分の一で指名されたのは、まさに「万が一」神様が間違えたのかもしれない。間違いだとしても、私が銀行を辞めると決めた途端にこんなあり得ないことが起きるのは、「何か」の力としか思えない。
よし!覚悟が決まった。「何か」の力に従ってみよう!
やって失敗して後悔したとしても、やらない後悔のほうが絶対に大きい。そう確信して飛び込んだ。
この分岐点での一歩が、その後の私にとって大きな原点になることは、だいぶ後からわかることになる。
タキシードもジーンズも!
大好きだった頃の懐かしの生写真たち
※職業柄、著名人の呼び捨てはご法度、必ず「さん」付けが鉄則ですが、秀樹さんに限っては特別な気持ちを込めて「秀樹」にします。