父が就職した紡績会社は、業界最大手の一つ。後年は繊維不況や組合問題等の苦難を乗り越え、且つ、化粧品分野にも展開し再生した会社だ。この戦後の混乱期は違った。雨後の竹の子の如く、出てくる取引先と、債権の取り立てで、大苦労の連続だったようだ。取り込み詐欺のようなことも頻繁に起こる。先輩の営業が、成績を上げるために売り込んだ商売の後始末に翻弄され続けた。しかし、自分の手がけた客先からは、贔屓にされ信頼を勝ち得ていた。
父親の仕送りで、野球漬けの、世間的に見れば恵まれた学生時代。更に、海軍でも周りが憧れる、絵に描いたような颯爽とした士官だった。それが、終戦と共に、一企業の勤め人になった。泥まみれの奮戦の日々だ。そこで、持ち前の利かん気と向こう気の強さが出た。辛抱することは不得手だ。徒手空拳。何の後ろ盾もまだ出来ない。甘いことを取引先の人が言ったかもしれない。僅か二年ばかりの実務経験で、独立することを決心してしまう。
退職後、この仕事を一から自力で始める。自転車の後ろに、反物を乗せ売り込んで歩く。上手くいって売り込めても、代金の回収はままならない。取り込み詐欺や、夜逃げもされた。後年では、少し仕事が上向いて、地盤が出来かかっても、不渡りの手形を掴まされた。個人だから、信用もない。キチンとした品物の仕入れからして大変なことだ。覚悟の上とは言え、苦労の連続だった。後年こそ、桐生の婦人用絹織物で独自に開発した商品を、二年間御縁の有った紡績会社に納めるまでになったが、その道のりは険しかった。
更に、その双肩には、同居する五人の家族がのしかかっていた。母方の両親は、戦災で焼け出され、お気に入りの娘である母を頼り続けて、戦争中から同居していた。その内、母方の祖父は間もなく、身罷った。母には、二人姉妹で姉がいた。医者の後妻に成り、東京に住んでいた。しかし、祖母はこの後、二十数年我が家で、息を引き取るまで一緒に住み続けた。
一方で、父にとっては、下関に離れて住む、台湾から引き揚げてきた養母のことが、常に気にかかっていた。この事が、後年、我が家で起こる総てのトラブルの鍵となる背景であり続ける。
私が三歳に成ろうとする時、父は東京に出る決心をする。東京の経済復興力の強さと、絹織物の取引から縁のあった桐生との交通の便もあった。
更に事態は動く。兄が小学校一年生の時、ツベルクリン反応で陽転する。この転地療養が一つの理由。更に、父が一人で東京で事業に専念する為が二つ目の理由。母と私達兄弟二人は、父の養母のいる下関に移り住んだ。母方の祖母は、医者に嫁いだ姉と共に住む様になった。これで、一度目のリセットがなされた。
下関では、父の養母は、広めの家を買い、旅館業を始めていた。台湾での材木業で、若い従業員たちの世話を裏方でやいていた人だ。人を使って、商売をすることには慣れていた。田舎から、この養母の親族も、頼ってきて手伝っていた。そこに右も左もわからない母が手伝いに入るのだから、苦労の程は想像に余りある。
孫である私達兄弟は、別格扱いを受ける。一方、母は従業員以下の位置づけに成る。食事の時から、風呂に入る順番等々。私達兄弟には、お客さん用食事の余りのおかずが出てくる。風呂もお客さんより先の一番風呂に入れて貰える。母は総て最後だ。後年、母がこぼした。食事は、大変な時だったから、覚悟を決めていたので、全然気に成らなかった。だが、最後のお風呂は、お客さんから始まり、全員が入るから、五右衛門風呂の中は、ドロドロに汚れて濁り、髪の毛も一杯で、とても入れなかった。
私は、小学校に入るころからは、ひきつけを起こしたりと病弱になるが、まだこの時は健康だった。大苦戦する母に、余計な負荷が掛らない様に、何かがそう計らっていたのかもしれない。兄が登校した後に、仕事の手が空いた母が、兄用のお弁当を作る。それを、隣町に有る小学校まで歩いて届けるのが、私の日課だ。帰り道、田圃の中を通り、乳牛を数頭飼っている牛乳屋さんで、自分用の牛乳を一本貰って帰る。この頃歩き回った周りの風景が、スナップショットの様に記憶に残っている。これが、私の遡れる幼少時の記憶の始まりだ。
その間、父が一日だけ、大阪への仕事のついでに足を延ばして、様子を見に来た。隣の家との間にある夏ミカンを塀に軽々と登って、一つ取ってくれた。それを、一つずつの房を剥いて食べさせてくれた。随分痩せていた。動作が軽やかで、若い風貌だった。滅多に家族に見せない優しい面を見せてくれた時の父の温もりのあるワンショットとして、記憶に残っている。
下関での母の苦闘の日々は続く中、私達兄弟は、順調に成長していった。次回は、東京に帰ってからの父の事業の展開と、趣味の野球への復帰についてです。