自分に見栄を張る
数々の名演技については、けっして探求的に語らず、むしろ、「どうかなぁ、彼女(役)みたいな繊細な気持ち私はわかんないよ。耳をすませば耳鳴りしか聞こえないもん」。希林さん20代で演じたドラマ「寺内貫太郎一家」のあの”ばあちゃん”役のおとぼけぶりについても、「おばあさんなんてだいたいとぼけててあんなもんでしょ」と、まさにとぼけて肩透かし。きっと理はあるはずだけど、難しくしない、玄人ぶらないところになんだかホッ。
そしてインタビュー中、笑えることが起きた。テーブルの横に立っていた映画宣伝の担当者に向かって「あなた、片付いちゃってくれない?」と真顔で手振りまでつけて言った。担当者は気遣いで立っていたのだけど、希林さんにとっては落ち着かないから見えないところに座って、という意味を、こんな表現をするところが希林さんの真骨頂。あの”寺貫のばあちゃん”的な毒っけはかなり地なのかも(笑)。
自らの病のことも「渋谷の街なんか歩くと、どうして私だけガンなんだろう、と思う。もちろん他の人も色々抱えていることはあるだろうけど、みんな元気に見えるじゃない。私だけなぜ…ってやっぱり思っちゃうよ」と正直な胸の内を聞いたときは、達観されているようでいても推し量れない葛藤もあって、希林さんも人間なんだなと思った。
そんな希林さんが生きる上で大切にしていることを尋ねると、それは「自分に見栄を張る」。見栄は他人に張るものではなく、自分が恥ずかしくないか、自分にウソがないか、自分に問うもの。そして自分の理想の姿としては「スッとしていたいね」。「凛とではなくスッと」だと強調する。それは、自分はマリオネットのように力が入っていない状態で、天から一本の糸で頭を吊られていないとパタンと倒れてしまうイメージだと説明してくれた。「力は抜けてて、一本の糸でスクッと立っている感じ」。
なるほど…。よく考えたら「凛と」には力が入っている。「力まずにスッと」というところが、余計なものを持たない希林さんらしさ。力が入ってないけどだらしなくフワフワしてるんじゃなくて、一本筋が通っている。
全てを鋭く見通すすごみさえ持ちながら、とても軽やかで間口が広く気取りがない。別れ際に私が思わず「『林檎殺人事件』とかも大好きでした」とバカな告白をすると、希林さんは「あれは面白かったよね〜」ととても嬉しそうで、偶然か、後日の歌番組で実際に郷ひろみさんと2ショットで再現していた。くだらないことも面白がれる柔らかいスケールの大きさ。
とうてい私がつかめるようなスケールではないのは百も承知だけど、私の最後のライター魂が動き、恥を捨てて自伝本の企画提案をしてみた。このタイミングを逃したら言うときはない!希林さんは、「私なんかに興味のある人なんていないでしょ。それに、私はそういう風に自分を残すことに興味はないから」。
希林さんならそう言う気がしていた。提案しておきながら、私はすごく納得。その手の話に乗らない希林さん、やっぱりカッコいい。
こういう人が本物の大物。私の語彙ではとても追いつかない。マネもできないけど、せめて、ラクに逃げそうになると私は「自分に見栄を張れ」と思う。
こんな魅力的な人生の先輩にお会いできたのはとても幸運で役得だった。これでライター業辞めても悔いはなし!
でも、もう二度と”希林さん節”を聞けないなんて…。どうせなら厳しくダメ出しされたかった。