皆さま
更新が滞っていて、すみませんでした。
7月31日に夫が急逝しました。
わずか2日の入院での突然のお別れに、これまで感じたことのない、
身を引きちぎられるような思い、喪失感を味わっています。
数日前までそこにいた人。たとえ会話をしていなくても、当たり前の風景として視界の中にあり、ちょっとした咳払いや足音も、「生活の音」として無意識のうちに馴染んでいた、その空間がある日「当たり前」ではなくなってしまったことが受け入れられませんでした。
前の日まで「今日も幸せだったよ」と口にしていた夫を、私はもっと幸せにしてあげたかった。定年退職してから亡くなるまでの半年間、毎日、仕事に行く私に、玄関先で「今日も輝いて!」と言って送り出してくれた。その言葉がお守りとなって、私は一日を笑顔で過ごすことができました。
がんの治療中も「大丈夫、Rieは守られているから」という夫の言葉に、文字通り「守られて」いたように思います。いつも、親指を立てる「いいね」のポーズで私を励ましてくれました。遺影には、そのポーズをしている写真を使いました。
幸せな瞬間を思い出すたびに、同時につらさも押し寄せて来ます。
毎日、遺影の前で、「私はそんなに強くないのだから逝かれては困る」「だから片時も離れずそばにいないとダメなんだからね」と訴え、亡き夫に心配をかけることで、半ば強制的にそばにいてくれることを迫るような約1ヶ月半でした。
この間、たくさんの人の支え、励ましの言葉や思いをいただきました。
出会う方の言葉やメールのひと言ひと言、本を開いて目に飛び込んできた一節、運転中にラジオから流れてきた曲の歌詞。その一つ一つが、いつしか夫からの贈り物のように感じ始めていきました。もちろん、姿がなく、声が聴けないのは寂しい。でも、また別の存在として、いま、夫との関係を構築し始めた自分もいるような気がしています。それはもう「信じる世界」なのかもしれません。
「もう大丈夫」とは、到底言えるような状態ではありませんが、四十九日を機に、もう一度、ブログに向かおうと思いました。
思いを綴るということは自分と向き合うということ。その作業の中には痛みも伴うこともあります。でも、この痛みは、幸せであったことの証でもあるので、感じ切って、味わっていこうと思っています。