●立正佼成会の行の仕組み、ご供養、法座、手取り、導きは何をもたらすのか?
我を捨てることで「願いが叶う」仕組みをお話しましたが、立正佼成会で行われている行(ご供養、法座、手取り、導きなど*注)は、自然と我がでないような優れた仕組みになっています。
例えば、朝夕のご供養ですが、これは、1日1時間程度、「思わず感謝する」枠組みを作っています。ご供養をしながら、マイナスのイメージを考えられる人はなかなかいません。多くの人は、ご先祖さま、家族、周りの人への感謝など、プラスのイメージでご供養をしているのではないでしょうか。感謝を習慣化させることで、「潜在意識の集合体」にポジティブな願いや思いを伝える時間を毎日確保できているのが「ご供養」です。
世界の中で成功している様々な組織のリーダーは、瞑想(メディテーション)を日常生活の中に取り入れています。一般的に、瞑想は1回30分が最適だと言われていますが、青経を朗々とあげると丁度30分です。お経の文字を丁寧に追うことで、我が消え、「潜在意識の集合体」にプラスの願いを送ることで、それが実現していくと考えられます。
同様に、法座では一人の人の悩みをみんなで車座となり共有します。悩みを聞いている間は、真剣にその人の身になっているので「我」がありません。したがって、「潜在意識の集合体」に自分が持っているマイナスの波動を送ることがない時間を作ることができます。
手取りや導きも同じでしょう。一人の人を仏道の道にお誘いすることは、真剣にその人に幸せになって欲しいと思って接しているので「我」がないのです。
開祖さまは、上京する時にお父さんから「なるべく暇がなくて、給料の安い、骨の折れる所へ奉公するように」と言われたそうです。暇がないくらい忙しいので「我」が出ません。給料が安くて最低限の生活をするので、お金が十分以上にあることから発する欲のような「我」が出ません。骨が折れる仕事で大変な思いをするので、「我」が出るゆとりもありません。したがって、このような仕事をすると、四六時中「我」が出ないので、「無意識の集合体」にマイナスの波動が伝わらないことで、ポジティブな願いがどんどん叶うのかもしれません。
*注)「ご供養」=読経、「法座」=悩みの共有、「手取り」=人生のみまもり、「導き」=仏道へのお誘い
※執筆者の承諾のもと、注釈を入れさせていただいております
(立正佼成会仙台教会ホームページ http://co-creation-net.org/myself/2523/ より引用)