左乳房の痛みは、その半年ほど前から始まりました。最愛の母を亡くしてしばらく経ってから生じた痛みだったため、「心の痛みが体の痛みに現れたのだ。時間が経てば和らぐだろう」と勝手に思い込んでいました。
しかし、痛みは日を追うごとに増し、それでも病院には行かず、毎日、胸を中心とした左半身に湿布薬をベタベタと張ってごまかしていました。
そんな日々が数ヶ月続いた頃には、夜、横になると痛みを強く感じるようになり、ソファに寄りかかって朝を待つ日が続きました。毎日、夜が来るのがとても怖く、そして、長く感じられました。
心の大半を「がんかもしれない」という思いが支配しているにもかかわらず、「がんは痛みがない」とのインターネットの言葉を頭に叩きつけ、「私には痛みがあるからがんではないんだ」「親にも親戚にも、がんの人がいないから大丈夫」とわずかな希望を見つけては、苦し紛れに自分を納得させていました。
「がんではない」ということを確認したいがためにインターネットで検索する。そんな行動によって、逆にがんのことばかり考えるようになり、テレビを見ていても、新聞や雑誌を読んでいても、「がん」の文字に過敏に反応するようになっていました。
そんな私の様子をそばで見ていた夫が「病院に行こう」と言ってくれましたが、私は「やだ!怖い!怖い」と号泣して、病院に行くことを拒みました。いま思えば、その頃はもう「私はがんではない」と思い込ませるのも限界に来ていたのだと思います。
痛みが出始めてから半年が経ち、とうとう我慢ができなくなって、病院を受診。やはり乳がんを疑われ検査を行うことになりました。
血液検査、超音波検査、マンモグラフィーなど、一週間ごとに一つの検査を行ないました。最終的には、がんかどうか確定できないということで細胞診検査をしました。「早く安心したい」と、もどかしく思いました。
すべての検査が終わって結果を待つだけの時期。痛みが激しく、急遽、痛み止めをもらうために受診しました。そのときの医師はこれまで担当してくれていた医師ではありませんでした。
「もう結果は出ています。いま、ここで言ってしまってもいいですか? 」。
突然の宣告?〈おいおい、まだ心の準備できてないしー〉と一瞬、心の中で叫びました。でもきっと、心の準備があろうがなかろうが結果は同じこと。断る理由もないので、「はい、お願いします」と答えました。
「左胸の乳がんです」
よく、テレビなどで、告知された瞬間を「奈落の底に突き落とされた思い」とか、「頭が真っ白になった」などと語っているのを見聞きしてきました。
でも、私はその瞬間、不思議と「ほっとした」のです。もちろんショックを受けなかったわけではありません。
この日まで約半年間、胸の痛みを「ないこと」にしようと必死でした。「ないこと」にしようとどんなに頭で思っても、私の体にがんが「ある」という事実は変わらず、私が目をそらせばそらすほど、患部は痛みを強めて「ここにいるよー!」とズキズキ主張してきました。なのに私はさらにそれを無視し続けようとしてきたのです。
もし、痛みが言葉を持っているとしたら、宣告された瞬間、「やっと私の存在に気づいてくれたね!」と言われている気がしました。痛みの正体を私が認知したことで、痛みが少し緩和されたようにも感じたのです。
ステージ2B リンパ節に転移が見られる。肺などの臓器への転移は見られないとのこと。
腫瘍は4センチ(実際には7センチありました)の大きさになっていたのと、リンパ節に転移していたため、抗がん剤治療後に左乳房全摘出とのこと。腫瘍が大きく、転移もあるため、セカンドオピニオンの余裕もなく、説明を聞く限り、私には選択肢がなさそうでした。「来週から抗がん剤治療を始めたい」と医師は言いました。
そもそも心の準備ができていない私は、なにがなんだか分からず、医師の冷静な説明を飲み込むのがやっとでした。
状況がつかめないなか、ただ一つ確信できたのは、昨日までの、「がんかもしれない」という、見えない不安と恐怖に向き合う日からは解放されるということでした。
これまでの「日常」とは違う、がん患者としての「新たな日常」が始まる。それは、決して孤独ではなく、身体的にも精神的にもたくさんの人の力を借りて歩んでいくのだろうという予感が、おぼろげな安心感となって、そのときの私を支えてくれました。
体の症状も、つらい体験も、人生のよきことのために起きている―-がんになってから出会った方からいただいた言葉です。
痛みがなければ病院行くことはなかった。行かなければ、いま頃どうなっていたのだろう。そう思うと「痛み」に感謝しかありません。
とは言っても……やっぱり痛みはつらいですよね(-_-;)
偉そうなことを言いながら、頭痛がするだの、関節が痛いだの、日々の小さな不調に一喜一憂する毎日です。