若いころよく夢を見た。週に何回も見ることは度々だった。よく空中を泳ぐように浮遊していた。大概、小さいころよく遊びに行った場所だった。或いは、記憶は定かでないが、どこか懐かしい感じのするところだ。何時も自分の背丈の三倍くらいの高さだった。歩くようなスピードで、平泳ぎで泳いでいるような進み方だった。不思議なストーリーの物語の事もあった。連続物語で見ることもあった。自分でなんとなく分別くさい人間に成ったことを自覚するような齢に成ってからは、夢を見ることは滅多に無くなった。でもまだほんのときたま見る。それもストーリーがあり、記憶している。心に引っ掛かる夢を見る。
最近、と云っても今年の初めだが、不思議に記憶に残る夢を見た。それは野なかの一本道を一人で歩いている。行き先は二手に分かれている。なんとなく左手に向かって進む。やがて一人の年齢不詳の女性が「そちらを行くとあなたの良く知っている仏教徒の女性たちが大勢話しながら来るのに出会いますよ。」と告げてくれる。何となく、今はその人たちに会いたくないなと感じながら、元の場所に引き返し、反対の道を行く。又暫し行くと、また別の年齢不詳の女性が、「このまま行くとキリスト教の人々が沢山やって来るのに出会いますよ。」と告げられる。それも困ったなと思う。なぜ思うのか。キリスト教の人達の中に自分が苦手とする、或いはそう感じる人が居る。夢の中では、そう思いまた引き返す。元の場所に戻って、両側から、人々が話しながら近づいて来るのが聞こえる。困ったなと思いながら、目覚ましで、目が覚める。布団の中で、何故キリスト教の人が苦手なんだろう。そうまた思いを巡らす。殉教してしまう様な人が周辺に身にまとっている雰囲気なのではないか。漠然とその雰囲気とか匂いなんじゃないかと思う。
そんな夢を見た後、今年は二つの事が起こった。遠藤周作の『沈黙』が映画化され、それを見た。また、仕事でイタリアに往き、ローマンカソリックの在家信徒フォコラーレの人々と会う巡りあわせに成った。どちらの機会も積極的にと云う事でなく、ためらいながら、流れを受け入れていった。仏教の他に、もともとキリスト教にも興味があり、ほんの入り口だけだが、歴史や文学の分野で少し時間をかけて読んだ時期があった。遠藤周作の作品に出て来る、痛みを一緒に感じながら寄り添って歩くキリストが見えるかどうか、といった東洋的な感覚でのキリストの捉え方に親しみを感じていた。また、「女の一生・キクの場合」の様に余りにも不憫で、とても一遍では読み切れず、中断してしまった本もあった。若いころ読んだときは、中には内容が重たく続けては読む気がしなくなり、他の後味の軽い作家のものと混ぜて読むこともあった。「沈黙」は何回か読み、何時もキチジローの異様さが気になった。やがて年齢と共に誰しもが持っている人間の弱い一面を誇張したものでないか。そう思ったりもしていた。
映画は見る者にとって救いのあるラストシーンにしてあった。これは「沈黙」の主人公のモデルであるロドリゴ(実在のパードレ、ジョゼッペ・キアラ)より数十年後に茗荷谷のキリシタン屋敷に囚われていた実在のシドッチの話を織り交ぜたものであった。従い、遠藤周作の原作よりダメージが少ない後味に成った。一方、フォコラーレでは在家の信者さん達が集団で長期に滞在し、修行・研修するロッピアーノの村に行った。殆どの方は柔らかな雰囲気をまとった人々だった。しかし、純度が高いというか透明度が高いというか、私の苦手な雰囲気を感じさせる人が僅かだがいた。なぜこんなことを敏感に感じ取るのか、同行した他の人々は全く気にした素振りもない。そこに思い当たる一つの過去の人物の姿が思い浮かぶ。キリスト教と縁が有りながら、長崎の島原の乱で仲間を裏切ることに成り、葛藤した人物。その人の話を次回に触れてみたい。